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日本人の「死生観」と私の思い [雑感]

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皆様、あけましておめでとうございます。今年も何卒よろしくお願いします。

記念すべき今年の第一エントリーは、日本人の死生観のあり方について、自分自身の今年の思いと皆様方への提言とさせていただきました。いつもの症例提示型エントリーは、おいおいと再開していきたいと思っています。

本エントリーのキーワードは、「気づき」、「逆観」、「日本人の死生観」です。 よろしくお願いします。

昨年末のエントリーで、病気・死は悪か? の中で、私は、次のような提言を行った。

むしろ、「病気・死は悪ではない」というスタンスを国が明確に打ち出したらどうですか? 
日本社会の中での、隠れた前提 「病気は死は悪である」=「回避すべきである」
この社会前提を、

「病気・死は、受け容れて付き合うもの」 という

新たな社会前提に改変すべく事業を立ち上げ、そこに技術開発を中止することで浮いた金、人、ものを投入したらどうですか?

しかしながら、病気・死というものは、他者から、「受け容れろ」といわれて、「はい、わかりました」と簡単に納得できるものではない。個人個人の内面にある価値観や人生観と関係するところが大きいからだ。春野ことり先生のブログ、天国へのビザでのエントリー 患者の皆さん、あきらめてください がとても大きな反響を読んだのも、「死を受け容れろ」という医療者側からの挑発とも受け取られかねない刺激的なタイトルが、読者の心を刺激したためではないかと、私は個人的に思っている。

四苦八苦という言葉がある。まさに、今年これからの医療情勢を表現する言葉として、ぴったりではないだろうか?
これは、仏教に由来した言葉だそうだ。仏教はこの世の苦しみは8つあるとしている。四苦とは、「生」「老」「病」「死」だ。これらは、誰にも避けることの出来ない苦しみと教えている。残りの四苦は、「愛するものと分かれる苦しみ」「憎んでいる人と会わなければならない苦しみ」「欲しいものが手に入らない苦しみ」「思いがこだわりを生む苦しみ」とのことだ。

なんだ、医療は、四苦そのものではないか・・・・・ということに私は気がついた。

医療は、どこかで宗教と切っても切れない何かがあるなあと昔から常々思っていたことが、これで腑に落ちた。

長い人類の歴史において、文化や宗教には様々な死生観が登場する。人間は誰でも死について考えずにはいられないからだろう。だが、「死は何なのか」についての答えを明確にしてくれた人は誰もいないし、これからもいないであろう。だからこそ、死は哲学的であり、宗教の教えとつながるのであろう。昨今の日本人の死生観について、奈良大学の大町教授は、その著書「命の終わり」の中で次のように述べている。

ここ5年をとってもみても、2005年4月にJR福知山脱線事故、2004年には新潟県中越地震、2001年には附属池田小児童殺傷事件などが起きている。突発的な事故、災害、事件である。いずれも遺族は、予想もしていなかった。遺族はこの衝撃的な出来事を受け容れられない。心の傷をいつまでも癒すことができないでいる。いつか癒える日が来るなど考えられそうもない。なぜなのだろう?
 戦後、いつからだろうか、われわれは
共同の「日本人の死生観」とも言うべきものを喪ったからではないか。愛する者の死をどう考えたらよいのか。この悲しみをどう癒せばよいのか。今は、遺族一人一人の、いつ終わるとも知れない、長く孤独な作業にゆだねられている。
 日本人はなぜ自らの死生観を喪ったのか。未曾有の敗戦が、われわれの親の世代に、それまでの文化的営為に対する自信を失わせたということもあるだろう。我々の戦後世代は欧米の文化に強い憧れをもったということもあるだろう。
大人たちは、子供に死を語らなくなった。戦後、死生観は空洞化していった。それでも生きることはできた。経済的繁栄という目標が日本人の頭の中を占めていたからである。

なるほどだと思う。日本経済繁栄というめぐまれた社会背景の中で、あまり死を考えなくても生きられる時代に生まれ、死の教育をほとんどうけることがないまま成人を迎えた昭和20年~昭和50年代生まれの人たちが、今そしてこれから、自らの親を「老」「病」「死」によってすでに喪いまたはこれから喪っていくことに直面していくのだ。その中で、その死を癒すことができなかった極一部の人達が、訴訟・責任追及という形で、医療者の前に現れてくるんだと私は思う。それがその人たち自身の苦しみや痛みの一表現であることは認めたいとは思うが、医療者がこういう一部の人達のために、モチベーションを失い、辞めていくのは、現在進行中の医療崩壊の一部の形であることだけは間違いないと思う。決して、私は訴訟を起こす人を批判しているわけではない。ただ、起こされる側の気持ちを表出しているだけである。それだけは、誤解のないように言っておく。私自身も訴訟されるぎりぎりのところまでなら数回経験しているが、それでも、自分の心にのしかかるプレッシャーは相当なものだった。もし、自分が訴えられたら、私は、とうていもう医療を続ける気にはならないだろうと思う。私のこの感覚は、ごく普通の医療者の感覚の平均像ではないだろか? 医療者の責任追及!責任追及!と主張される方々には、ぜひ今一度、自分の内面をよく見つめて考えてみてほしいものだと思う。責任追求以外にもっと他の考え方はないでしょうか?と。もっと違う考え方をすれば、あなた自身の苦しみや痛みの感じ方が変わってきませんか?と。

もちろん、私は、死や病気を受け容れるべきだという考えを一方的に押し付ける気持ちはない。個人個人が、自ら考え、自ら納得することが重要だと思っているからだ。 そして、医療者のあり方としては、医療者からの押し付けではなく、個人個人が自らの気づきを促せるようなアプローチができることが理想だと、私は考えるようになった。それは、次の書物との出会いが大きい。患者の気づきの援助という視点において、関西医大の中井教授は、その著書「いのちの医療」の中で次のように述べている。

患者さんなら患者さんの病にも、必ず意味があるんです。僕はどの患者さんにも、あることを必ず聞くんですね。それは聞き方は聞くタイミングが非常に難しいんですけど、「病気になってよかったことはどんなことですか」って聞くんです。
 そうするとはっとされるんですね。病気によって自分がどう変わったか。一生懸命考えられて、なかなか答えがでないこともあります。こういうことを「逆観」というんです。仏教の言葉です。-逆の見方をしてもらう。病気イコール悪と考えないと言いましたね。
「病気になってよかった」というのは逆観です。
                         ・・・・(中略)・・・・・・・
 「失明してよかったことは・・・・」-患者さんもすぐそういう答えを言われるんですか。やっぱり、ものすごく腹がたつということをまず言われますね。僕みたいな答えを言う人はほとんどいないんです。でもそこで僕の考えは言わないで「そういう考えもあるでしょうけど、もっと違う考え方はないですか」と言いながら、
自分のこころの中に入っていってもらって、気づいてもらうんです。

病気や死を逆観すれば、さまざまな気づきがあると思う。中井先生のこの本から、私はそういうことを教えていただいたような気がする。 私は、地雷疾患は避けるべきものだとばかり思っていた。しかし、逆観してみれば、「(地雷疾患で)突然だったけど、苦しまずに逝けてよかったね」ともいえるわけである。ときには、そういうことを残された御家族に気づいてもらう援助を私達がお手伝いさせてもらうことがあってもいいのではないだろうか?

私は、最近、佐江衆一の「黄落(こうらく)」を読んだ。これは、父92歳、母87歳の高齢の老親を介護する夫婦の苦悩を描いた小説である。 自ら食断ちをして死のうとする母、それを認める子・・・・・・。このスタンスには、賛否両論があるだろう・・・・。難しい問題だ。

私が、内科病棟で勤務していたときのこと、一人の90代の高齢女性を看取った。自力歩行は厳しく、認知症もありコミュニケーションは困難な方だった。そんな高齢女性が、脱水と発熱で当院の時間外に緊急入院になったのだ。すでに患者さんの子供達は全員他界し、30代の孫娘が一人で世話をしているという家族背景だった。自分の子供達に全て先に逝かれ、さぞつらかったことだろう。そんな患者の思いは、孫娘に伝わっていたようだ。

私    「もうだいぶ弱っておられます。自分の口でお食事を食べるのは難しそうですね。
        どうされますか?」
孫娘 「自然の経過にお任せします。
       昔、お婆ちゃんは、早く息子や娘達のところに行きたいとよく言ってましたから」

私は、それでも、胃ろうや経管栄養、IVHなどの選択肢があることを説明した。
孫娘は、末梢点滴だけを望んだ。固い決意だった。私もそれを受け入れた。

その10日後、患者さんは静かに息を引き取った。臨終の際の孫娘の涙をみて、私は、きっとこの方の人生は幸せだったんだろうなと思った。孫娘さんも、きっとこの死を通して、今後自分の人生にプラスになる何かを感じ取ってくれたことと思う。

黄落と似たような状況である。誰も言葉にこそ出さないが、でも確実に、医療の中で「死」を目標にしていたのである。

今、診療関連死が、十分な議論を経ることなく、その定義もあいまいなまま、医師の処罰だけはしっかり明確化されただけのある法案が国会に出されようとしている。死に行く人や残された家族やそれに関わった医療者の心は置き去りにしたままに・・・・・。当然、日本人の「死生観」の配慮なんか、どこにもない。これを作った人たちの心の中には、死は避けるべきものという絶対前提しかないんだろうか?と私は感じてしまうのだ。

私は、この法案には、断固反対の立場をとる。我々も対案を出しつつ、もっと熟慮する必要があると考えるからだ。

私のこの体験だって、取り様によっては、診療関連死にできてしまうのだ。一人でも心情的に納得できない家族が入れば・・・・。 そんな状況になってしまえば、我々は、どうやって医療を提供すればいいのだろうか?

人が死ななくなった(死ねなくなった)今の社会・・・・。社会システムとしては、想定外の高齢社会となってしまっている故に、医療費、年金、住居、介護・・・・にしわ寄せが来ているように思う。政府を批判するのは簡単だ。しかし、批判はできても解決は難しいというのは、心の中で誰もが認めていることではないだろうか?そんな中で、様々な葛藤がある。医療者は、望むと望まざるに関わらず、その渦中に入り、なんらかの社会的役割を要求される。

共同の「日本人の死生観」が欠如していては、私達医療者もどう立ち振る舞っていいのか、ただ戸惑うしかない。個人個人の死生観に関する信念は、それを「モノクロトーン」で例えて言えば、「真っ白のトーン」から「真っ黒のトーン」まですべてにわたって分布していると考えられる。だから、医師だけの「トーン」で、患者のためによかれと思い行動しても、家族との「トーン」との違いから、対立が生じてしまうことが多々あると思われる。そして、そこに不信感があれば、もう目も当てられない惨状となる。

喪われた共同の「日本人の死生観」を復興させる私なりの提言をする。まず、医療者自らが、自らの内面を見つめ、まず自分でそれを考え、考え続けること。そして、次に、私達医療者が、その専門性に関係なく、患者に積極的にこのような気づきのアプローチをしていくこと。それらが、私達医療者が出来うる現実的なささやかな第一歩なのかもしれない。そして、それらが「個」から「社会」レベルへと上手く拡充していくとき、ようやく初めて、新たなる共同の「日本人の死生観」なるものが構築されていくのだろうと思う。少なくとも、私は、そう考えて、自らを見つめなおすとともに、今年、これから出会うであろう患者には、このような気づきのアプローチで接していきたいと思っている。

誰かに死生観を決めてもらおうというスタンスでは、いけないと、私は個人的には思う。とにかくまず自分で考える。その上で、他人との違いは違いとして認め、共通の落としどころを模索することを容認する・・・・。そういう個人レベルの人間的成熟がないと、当面の医療は社会システムとして上手く回らないであろう。私はそう思う。しかし、言うは易し、行うは難しである。だからこそ、宗教の存在が社会に不可欠なのだろう。それは、ある意味、自分の死生観を決めてもらうことになるのだから。


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コメント 17

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moto

では、お題のひとつ「逆観」で一席。

仲良くしてもらっている眼科の先生がいるんですが、その先生の言うには、白内障のオペをしたあと、「見えるようになって良かったですね」というと、ヨヨヨと泣き出すおばあちゃんが時にいるそうです。なぜかわかりますか?

鏡を見て、しみしわでムチャクチャになった自分の顔を見て、「こんなことなら見えないほうが良かった」んだそうです。眼科の先生は「世の中、見えないほうがいいことって多いのよね」が口癖です(眼科の先生にあるまじき発言のような気もする)。

わたしは美容外科なんで「それじゃあ、そのおばあちゃんたちを、うちに紹介してくださいよ」と持ちかけるんですが、彼女(眼科の先生)は、あまり乗り気じゃない。さて、その理由は?
1.しみやしわは、自然なものだから取る必要はない。
2.わたしの腕を信用していない。
3.その他。

答えは後日(笑)
by moto (2008-01-01 05:43) 

風はば

あけましておめでとうございます。昨年はROMってばっかりだったので今年は少しでも書き込みができればと思います。

死生観についてですが、「人は必ず死ぬ」ことは皆さん頭の中で理解されています。しかし、いざという時に身近な事として受け入れ出来ない、受け入れようとしない方が多いように思います。かくいう私もその一人であることは、自覚しております。

死生観についてはよく論じられているかと思いますが、身近に「死」を体験しなくなったことと、仮想現実(主にゲーム)の中では「生き返る」ことが原因ではないかと思います。そういった意味では、生き物を飼う(金魚でも犬でも)ことは有意義であると思います。いずれ死別という経過を辿ることが多いので、愛着があればある程ショックも大きいですが、それは人間として成熟できる良い機会ではないかと思います。

「老」「病」「死」が罪になれば、「生」まれたこと自体が罪になります。「老」「病」「死」は避けて通れませんから・・・。

(なんだかまとまりなく、死生観とは、かけ離れてしまったコメントかもしれません)
by 風はば (2008-01-01 12:20) 

山口(産婦人科)

私は親の実家がプロテスタント、幼稚園がカソリックという環境で育ったので仏教とは縁が薄いのですが、宗教の中で一番理にかなっているような気がするのは仏教ですね。(教えそのものは漫画の「ブッダ」で読んだだけなんですが)
「愛別離苦」「会者定離」といい、「生」「老」「病」「死」が四苦ということも、とても理にかなっていると思います。

何でこれほど合理的に思えるのに、キリストやアラーに負けるんだろう。
by 山口(産婦人科) (2008-01-01 19:41) 

元なんちゃって救急医

moto先生 

彼女(眼科の先生)は、あまり乗り気じゃない。さて、その理由は?
1.しみやしわは、自然なものだから取る必要はない。
2.わたしの腕を信用していない。
3.その他。

では、3ということで・・・・・・。
目が見えるようになり、顔のしわもとれ、人生ばら色と思いきや、今度は目の前にいるだんなが気になりだし・・・、私と不釣合いという思いがむくむくと
そして、新たなる悲劇が・・・・

考えすぎ???
by 元なんちゃって救急医 (2008-01-02 08:22) 

元なんちゃって救急医

風はば 先生  年始よりのコメントありがとうございます。

>生き物を飼う(金魚でも犬でも)ことは有意義である

これは、とてもいいことだと思います。
death educationの第一歩だと思います。
by 元なんちゃって救急医 (2008-01-02 08:23) 

元なんちゃって救急医

山口(産婦人科)先生

各宗教に詳しいわけではありませんが、どうなんでしょうね。
もしかしたら、各宗教の根幹をよくつきつめてみると、案外同じじゃないでしょうか? なんせ、人間というホモサピエンスの脳が作り出したことにおいては、共通ですから。
by 元なんちゃって救急医 (2008-01-02 08:29) 

moto

>なんちゃって救急医先生

ありがとうございます。正解は3ですが、理由はちょっと違います。
彼女は、わたしの患者(というかお客さん)なので、自分の患者にうちの宣伝をしすぎると、「あの先生はきっと自分も美容外科に通っているに違いない」と、噂されるのを怖れるからです。彼女、田舎開業なので。
このへんの心理、女性だとわかりやすいのかも。

で、無駄にこのネタを振ったわけでは決してなく、「死生観」というのも、彼女の上記心理同様、人さまざまな訳ありの価値観に基づいているとわたしは思います。それで、まず、そこを把握すること、それには、やっぱり洞察力・想像力が求められると思うわけです。
自分の死生観(価値観)を理解してくれた、と感じた時点で、患者は医者(他人)に心を許す、隙間が開いて、門戸が開くと思うのですよ。
相手を把握して、まず、それを優しく受け入れるんですね。それから、こちら側の死生観(価値観)を少しずつ注入する。

で、最後は、やっぱり「目」でしょうかね。科は違いますがわたしの臨床経験からは。目の使い方。相手を正面から見て話す。目で心を伝える。
シンプルで原始的ですが、どんなレトリックよりも信じさせたりします。
目に自信の無い方、ぜひうちのクリニックまでどうぞ(笑。
by moto (2008-01-02 09:15) 

moto

ところで、昨日、都内某救急センターを見学させていただきました。
わたしのいた間(12時間)に、救急車搬送が4件。うち2件がCPAで、わたしもCPRに参加させてもらいました。ACLSのマニュアル通りにやってると、ちゃんと蘇生するものですねー、感心しました。
ただ2件とも、瞳孔は戻らないままで、よく行ってvesiなんでしょうか?・・1人はモチ詰まらせたおじいちゃんで、ブロンコの吸引でモチ取り除いた(鮮やか!)のち、聴性脳幹反射?みていましたが、反応なかったようで、毎日がああいう生活だと、やりがいの落差が激しすぎて大変でしょうね。。どうも、お疲れ様です。
by moto (2008-01-02 09:34) 

僻地外科医

>moto先生
 もう1例の経過は分からないので何とも言えませんが(CPA->心拍再開後、一時的には瞳孔散大したままでも、社会復帰まではいたらぬものの中等度の障害を残して長期生存という例は知ってます)、呼吸停止->心停止の経過ではよくてvesiでしょうね。

 でも、そんな例であっても(例えこれは良くてvesiだろうなと思っても)、救命には全力を尽くします。それはもちろん、そう言う例からの復活もわずかながらあり得るからでもありますし、それ以上に普段からそう言う例でも全力を尽くすことによってのみ、完全社会復帰出来る症例を生み出す力がつくからです。これも命の連鎖の一つだと思います。一つの死を無意味にしないための努力です。私は救急隊員に常にそう教えてきています。

 そして、もっとも残念なのはそう言う努力が数字や結果のみで判断されてしまうことです。
by 僻地外科医 (2008-01-02 11:30) 

tidalwave

若年のAMIから一人暮らしのお年寄りの脱水まで、もろもろの患者さんが救急外来に運び込まれてくる市中病院に勤めていた時に、私も同じことをいつも考えていました。普段何の世話もしていない遠方の家族の方が、もう助かる見込みのない患者さんの治療に関して、できることは何でもしてくださいとおっしゃるのをどうすればよいのかと。
このような背景には、
(1)死んでいくという事実を認めたくない
(2)決断の責任を負いたくない
という二つの心情が絡んでいるのではないかと思います。

アメリカの患者さんはいざという時に自分がどうして欲しいか明確に答えられる人が多いように思います。リスクの少ない入院(ペースメーカー挿入など)でさえもいつも看護師がDNRかどうかの確認を入院時に患者さんに行います。このようなことが自然に行える背景には、もちろん医療が高額であり延命治療を長々と行えないという理由も大きいと思いますが、やはり彼らが普段から、自分はどうしたいかを考えているからだと思うのです。宗教が浸透していることも大きな理由に挙げられるでしょう。

日本では医療費が安く、宗教に基づいた倫理観がないまま個人主義も根付いておらず、かつ高度な医療があたかも永遠の命を約束しているかのような状況です。こういう因子がからみあって死ぬことはタブーであるという考えを形づくり、そのとばっちりを医療者がくっているような気がします。

死ぬということをどのように受け入れ、自分なりにどう意味づけるかを考えることなしに、生きることの大切さはわからないのでしょう。そういう意味で本当に命の大切さがわかっている日本人は少なくなっているのかもしれません。宗教はその手助けをしてくれるでしょうが、たとえ特定の宗教なしでも、真剣に考えてみることでそれぞれの答えが見つかるのではと思います。まずはわれわれ自身が、そういうことを聞かれた時に揺るがない軸をもって語れるようにするべきなんですね、きっと。
by tidalwave (2008-01-02 13:02) 

筑紫の里

新年おめでとうございます。太宰府天満宮の近辺は混雑していて、病院に辿り着くまで一苦労しました。

さて、WOWOWでGrey's Anatomyで父との6日間という題目で放映されますからみてみようと思いますが、実はアメリカ人も脳死を受容するのに時間はかかります。日本以上に家族の絆を大切にするアメリカ人ですし、看護師サイドからも体温があるのに何故脳死と言えるの?そういう質問があったそうです。

そこで脳死患者にSPECT、脳血管撮影をしてまで脳に血流がないことを証明しないと家族、看護師が納得してくれなかった歴史があります。アメリカの高額医療費の問題から医療経済的側面でばかりアメリカ人の死生観を問う論評が多いのですが、私はそういう側面だけではないと思います。
by 筑紫の里 (2008-01-03 10:38) 

元なんちゃって救急医

>tidalwave 先生
>筑紫の里 先生

コメントありがとうございます。今年も何卒よろしくお願いします。
by 元なんちゃって救急医 (2008-01-05 21:33) 

肉球

2008年になって初めてブログを見ています。主婦です。
「失明してよかったことは・・・・」を読んでいて思い出したことを書きます。
うちの犬が(犬の)大学病院にいったときのこと。さすがに大学病院まで来るペットたちは重病そうでした、ある大型犬も大人3人ぐらいが付き添って、いかにもつらそうに入ってきました。その犬が診療に入って半日ほどして出てきてびっくり、足が一本なくなっていました。飼い主さんの一人は泣いていて周りの人に励まされ一生懸命うなずいていました。私ももらい泣きしてしまいました。しかし、ふと犬を見るとうれしそうに、ひょこひょこ歩いていました。犬の気持ちはわかりませんから、うれしかどうか定かではありませんが。そう見えました。今まで痛かった足が無くなり痛み止めが効いていて楽になったのでしょうか。
動物と暮らしているといろいろ教わります。その中でも私は「あるがままに」とか「しょうがない」ということを教わりました。なにか、やる気の無いような印象を受けますがそうじゃないのです、動物は毎日一生懸命です。ただそれだけです。
今年も楽しく読みたいと思いますのでよろしくお願いします。
by 肉球 (2008-01-11 13:39) 

元なんちゃって救急医

>肉球 様

コメントありがとうございます。動物からいろいろなことを教わる
そんなふうに考えることができる肉球様の感性すばらしいと思います。
こちらこそよろしくお願いします。
by 元なんちゃって救急医 (2008-01-11 20:21) 

のぶ

逆観の事、大変参考になりました。そして気づいたのですが、四苦八苦も逆観する事が重要に思うのです。愛する人と別れる苦しみは、愛する人とで合う喜びを知っている人にしかありません。憎む人に出会う苦しみは会者定離のこの世では、いずれやってくる憎む人と別れる喜びが待っているではないですか。欲しいものは手に入らないから努力をしたり頭を使ったり出来るし、こだわりのある人はこだわらない事が大切である事をいずれ学習できるのです。そのように考えを進めると、生きている事は素晴らしい。こうしてたくさんの人とお話出来るのだから。老いる事は素晴らしい。たくさんの経験を積んで困っている人の相談に答えられるのだから。病う事は素晴らしい。先生がブログに書いているように何かに気づく事が出来るのだから。だから、私は、喜ばしい死を迎える事が出来るまで長生きしようと思います。私がここに居る事は全てが本当は喜びである事を私は信じています。大切な気付きを頂戴できて感謝いたします。
by のぶ (2008-02-24 22:14) 

ロッタ

なんちゃって救急医先生の現場で日々肌で感じておられる「死」についての記事を読ませていただき、非常に深く感銘を受けました。

わたくしごとですが、父が50歳のときに難病MGになりました。
大学病院に入院初日、かろうじて歩行できたのが、病室に入った途端、球麻痺に陥りまして、即日急遽人工呼吸器を装着すると丸2年。骨と皮だけの父は何本ものチューブにつながれ、ときどき意識を回復しては、自分の置かれている立場に苦しんで涙を流しておりました。
その間、多量のステロイド投与中に胸腺摘出手術を強行したことによる感染症などで8つもの合併症に何度死にかけたかわかりません。
3年目から徐々にリハビリし、4年目には歩行可能となり、社会復帰をすることができるも、入退院を繰り返し、8年目に心臓停止で亡くなりました。
父は一度も遺書を残さず、ただ手帳の日記には「今後の人生に悩む」とあり、生きることの苦しさをまざまざと見てまいりました。
実はわたしは父が亡くなる半年前に『老子』に出会い、善も悪もないという価値観に衝撃を受けました。そして加島祥造さんの『TAO~老子』を父に贈ったこともありました。(宗教哲学を毛嫌いする父からは、何の感想もありませんでしたが)
それからはなんちゃって救急医先生と同じように老荘思想にはまりまくりました。『荘子』の禅に通じる思想から、仏教に関してもあらゆる本を図書館で借りては読んでいました。
そんなことで「死」とはなにか。生きることの意味は何か。なぜ人は病気になるのか。そういうことを父から学び、最近は精神世界にはまっております。
長々とすみません。

現場の先生方の命懸けの努力を、わたしは知っております。
そしてなんちゃって救急医先生のように、人間の内面に焦点を当てられ、探求されるお医者様がいらっしゃることに、非常に感銘を受けました。
また、ここへおじゃまさせていただきます。
ありがとうございました。

by ロッタ (2008-05-19 00:13) 

なんちゃって救急医

>ロッタ 様

こちらへおこしいただきありがとうございました。

>人間の内面に焦点を当てられ、探求されるお医者様がいらっしゃることに、非常に感銘を受けました

たいへん嬉しいお言葉です。ありがとうございます。

老荘思想に傾倒していくきっかけは似たようなものですね・・・・。
by なんちゃって救急医 (2008-05-20 22:36) 

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