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遺族の納得はどうしたら得られるのか? [雑感]

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割り箸訴訟と医療の不確実性 のエントリーでのコメント欄で、大変有意義な議論が続いているようです。私自身は、そこに、一つの結論を出す必要はないというスタンスで、静観させていただいています。

より多くの方々の目に留まることを期待して、ここでのやりとりをひとつのエントリーとして立ててみました。そして、ここで議論の続きができればと改めて場を設定しなおしました。

議論のきっかけは、rio様のコメントです。ありがとうございます。

議論のテーマは、
『医療の中で生じた予期せぬ死(と遺族が感じる)の事例において、遺族の納得はどうしたら得られるのでしょうか?』
と言えると思います。

rio様(非医療者の方)は、医師の役割の大きさを指摘しました。それに対し、僻地外科医様(医師)は、納得のプロセスには教育、宗教の問題が大きいことを指摘しました。さらに、一般ピーポー様のコメントからは、医師に対して、医療行為以外の人間性(?)を求めておられるようだと私には感じられました。

そして、おそらく医療者側の方々からだと思いますが、cannt様、chkt様からのコメントが続きました。どちらかといえば、遺族のケアに医療者側が積極的に介入することを懸念するご意見です。

そして、沼地様の『やっぱり何かものすごい溝を感じます。』というコメントが重く響いているように私には思えました。kein様は、医療者の立場でありながら、ご遺族の立場になりかかったときのご自身の心情をコメントしてくださいました。「気づき」の体験を語られております。

今、国で進められている診療関連死法案やADRの構築なども、遺族の納得が当然目標にあるわけですが、本当にに難しい問題だと思います。そもそも、これは目標とすべきものかという考え方もあって当然だとは思います。そして、どんな結論を出したとしても、万人の納得を得ることは不可能でしょう。だから、落としどころ(妥協点)をどこに持っていくのかが、これからの課題だろうと思います。

もう一つ、決して社会システムではどうしようもない部分があるということを、万人が認知しておくことも大切ではないかと私は考えます。それは、個人個人の心の中に存在する気持ちや感情です。

では、その個人の気持ちや感情に寄与するものは何か? 宗教はその一つだと思うし、教育(学校、家庭)も大きな因子だと思います。当然、文化も大きく関係することでしょう。

私達医療者は、遺族の気持ちを完全にわかりきることはできないのだろうと思います。しかし、わかる努力を続ける姿勢そのものは大事だと考えます。そうすることは、自分が遺族の立場に回ったとき、自分の人生に有意義なものをもたらしてくれるかもしれません。

遺族の方々は、医療者の気持ちを完全にわかりきることはできないのだろうと思います。しかし、わかる努力を続ける姿勢そのものは大事だと考えます。そうすることは、「死の受容」へつながる自らの気づきを得る機会となるかもしれないと私は考えるからです。また、そうすることは、納得できない⇒復讐感情 への転換を抑制することにもなるのではないかとも私は考えるからです。

以下に、コメントのやり取りを記します。 勝手にコメントを抜粋している部分があることは、どうかご容赦ください。

rio様のコメント(抜粋)

ここからやっと本題ですが、医者、マスコミ、一般人の区別無く、いま私たちが真摯に考えるべきは「どのように死を受容するか」という点だと思います。

医者のように専門知識をもって死と日常的に向かい合っている層はごくわずかです。専門知識のない人間に我が子の突然死という災厄が降りかかった場合、「死」を知らない現代では、親のとる行動は、自分を責めるか、他人を責めるか。この2つしかないだろうと思います。

その際に、「このケースは誰も責められるべきではない」と専門的に判断し、
遺族に納得させられるのは医者だけです。言い換えれば、それも含めて医者の仕事なのだと思います。

僻地外科様のコメント

本質的な間違いがありますので一言

>その際に、「このケースは誰も責められるべきではない」と専門的に判断し、遺族に納得させられるのは医者だけです。言い換えれば、それも含めて医者の仕事なのだと思います。

 これは医師の仕事ではありません。
あえて誰かの仕事であると言うならば教育と日本では廃れてしまった宗教の仕事です。時間があるなしにかかわらず医師の仕事ではありません。

一般ピーポー様のコメント(抜粋)

しかしこれが僻地外科医さんの本音だとすれば、私(達?)一患者としましては非常に恐怖です。
(途中略)
患者の多くは治療の成否と同等か、或いは
それ以上に先生の人間性の豊かさを求めています。お医者様とは論理と情緒、この二つの相反する人間性を持ってこその"先生"だと思うのですが…。

僻地外科医様のコメントを元にして述べた自分自身の考え

<遺族に納得していただくというプロセスは、医師だけの仕事ではありません。いや、皆様に医師だけの仕事とは考えてほしくないのです。つまり、多くの方が関わる共同の作業であることに気がついてほしいのです。例えば、どういう仕事があるかと言うならば、教育と宗教がかかわるという仕事が挙げられるのではないでしょうか?納得のプロセスは、医師が行う医学的解釈以外に、その人也の人生観、倫理観、宗教観がどうしても影響してくるからです。だから、たとえ医師に十分に時間があったにしても、遺族の納得のプロセスは、医師だけの仕事ではないということです。>

僻地外科医様のコメント(抜粋)

もちろん我々は真摯に考え得る状況、死に至る機転等を丁寧に説明しますが、それは「納得」という言葉を得るには程遠いものなのです。これを情緒面で解決出来るのは日頃の死に対する教育であり、あるいは宗教です。一般ピーポーさんは誤解されているようですがこれはinformed concentとはまるで別のものです。

私がこの問題が本来医師の仕事ではないといったのはそういう意味です。


 Rio氏のもっとも本質的な誤りは

>その際に、「このケースは誰も責められるべきではない」と専門的に判断し、遺族に納得させられるのは医者だけです。

 この一文に現れています。

「このケースは誰も責められるべきではない」と専門的に判断するのは医師の仕事です。また、そう説明するのも医師の仕事です。
 しかし、遺族を納得させるのは医師の仕事ではありません。

 この2つを混同して語っているのが彼の最も大きな間違いです。
なお、もちろん人によっては医師の説明のみで納得される方もいますし、どちらかと言えばその方が多数派かも知れませんが、「納得するかどうか」という一点に絞って言えば、これはその人の受けてきた教育や宗教観が決定するものだと思います。医師がどう説明したかという問題はごく副次的な問題に過ぎないと思います。

一般ピーポー様のコメント(抜粋)

しかし、死は死。そういった現実が動かせない事実である以上、遺族としてはその絶望をほんの少しでも良いので今際に立ち会った専門家に和らげて欲しいと考えるのでは。

しかし実際にそのフォローを医師の方がされることで、後にではあってもいくらかの遺族には医師の人間性が伝わり、そうした積み重ねがやがてその医師の方の評判となり、結果様々な実利は生まれるのではないでしょうか。

私は以上の点で「それは医師の仕事ではない」としてしまうのは、
どうしても冷たさを感じ哀しくもあり、また一方で勿体なく思えてしまうのです。

僻地外科医先生のコメント(抜粋)

私が言っているのは【現実面として】患者さんのご家族を【納得】させることが医師の仕事ではないと言うことで、ご家族に対する説明の努力を怠れといっているわけではありません。

 そして
>しかし実際にそのフォローを医師の方がされることで、後にではあってもいくらかの遺族には医師の人間性が伝わり、そうした積み重ねがやがてその医師の方の評判となり、結果様々な実利は生まれるのではないでしょうか。

 これに対する典型的な反証を示します。
http://lohasmedical .jp/blog/2007/12/pos t_991.php#more

 果たして加藤医師の誠実な態度がご遺族に伝わったでしょうか?あるいは加藤医師は誠実な態度でご家族に接していなかったでしょうか?

 
もはや、ケアを与える側(不遜な言い方ですが)だけではこの問題は解決出来ないと思うのです。

cannt様のコメント

遺族のケアに挑戦するとしても、失敗したら刑事被告人で、無罪になっても10年後れの医者になってしまうとすれば、何故そのようなボランティアをしなければならないのか、自分の家族に説明できません。

小児や妊婦を診ることなど出来ません。

chkt様のコメント

私は、死因を説明することを超えて遺族を納得させるという行為は、悪しきパターナリズムそのものであり、行われるべきではないと思います。遺族から暴言が吐かれたり、はなはだしくは暴力が振るわれても遺族ケアの名の下に、なあなあに済まされてきました。しかし、医師は患者の両親でも友人でもありません。感情の垂れ流しを甘受するいわれはありません。

DVにおいても被害者が我慢することは事態を悪くします。遺族ケアなどと小手先の対応を繰り返したために、患者の自立を阻害し、パターナリズムから抜け出せなくなっていると考えます。

沼地様のコメント(抜粋)

やっぱり何かものすごい溝を感じます。
先天的に異常があったのかもし れないと説明したことがご遺族の不信感のもとになった可能性....
CTで割り箸自体が見えてない、頸静脈孔経由で刺さっていて頭蓋骨に損傷が無い。
そうすると自分でも小児の突然の脳出血ならば、動静脈奇形が存在した可能性を一番に考えると思います。
でもそれが、基礎疾患があったせいにしようとした、いいかげんなことを言ったって受け取られるとは説明したほうは夢にも思ってなかったろうなってこと。
すべてが誤解というか理解の難しさから来ている気がします。
遺族に納得してもらうのが医師の仕事か周囲の人の仕事か、はたまた宗教家の出番かは判りませんが、少なくとも裁判に持ち込むのは無しにして欲しかったというか。

kein様のコメント(抜粋)

1年ほど前に自分の子供が食べ物による気道閉塞で死にかけた内科医です。その時に心に去来した内容は参考になるでしょうか。エピソードは自宅で起こったのですが,運よく助けられました。

またどのような年齢層にも突発する不可避な死があり,大袈裟かもしれませんが失うかもという気持ちを内在させつつ現在生きていることの価値をかみ締める必要があることに気が付けました。 それからは何か清清しい気持ちで今を精一杯と考え生活できています。危なく医療従事者側ではなく遺族側に立った体験をする可能性のあったものの気持ちを書いて見ました。


ここでの議論は、何か結論を出すことを目的としたものではなく、自由な意見の中から、皆様が、それぞれにおいて何かの気づきのなる機会になればいいなというのがブログ主の意図するところです。

ブログ主があまりにひどいと思えるコメント等は、ブログ主のみの判断において投稿コメント削除をするというブログ管理方針であることは、あらかじめ伝えておきます。

上記にご納得いただける方は、ご自由にコメントしていただいてかまいません。よろしくおねがいします。


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コメント 38

コメントの受付は締め切りました
元なんちゃって救急医

エントリーを立てたときとほぼ同時のコメントでしたので、こちらの続きエントリーにそのままコピーさせていただきました。

********* yamaさまからのコメント

横から失礼いたします。
rio様の発言を見て思ったことを述べさせていただきます。
病院の初期対応が悪かったという点ですが、患者側がはじめから悪意や憎悪を持って接したり、自分に都合の悪いことを言われた場合、表現の方法が変わります。私自身、自分の言った言葉が患者さんに翻訳されて他の医師に伝わっていたことがあります。
私が「あなたの場合、血圧が不安定なのは精神的に問題がある可能性があるので心療内科を一度お受けになってはいかがですか」言ったにも関わらず、患者さんが心療内科医に言うときは「主治医からおまえは頭がおかしいんだから心療内科に行けと言われた」となってしまいます(これは実際に経験したことです)。
患者さんを怒らすような言葉を言ったのかどうかは未だにわかりません。私の言動に問題があったのかもしれませんが、それは今を持ってもはっきり認識できません。もちろん悪意は全くありませんでした。でも、ある人には問題のない一言がある人には悪意に受け取れる、最近は人間とはそうした性質のある動物なのだと思うようになりました。ヒトというのは物事を自分の都合の良いように解釈するのです(これは私の反省でもあります)。
だから、大学病院側が本当に問題のある発言をしたのかどうかは正直言ってわかりません。ただ、大学側と患者側にお互いを許すという認識がなければこうしたいざこざは起きるものなのでしょう(ちょっと宗教がかって来ちゃいましたね)。ましてや大学ははじめは本当に原因がわからなかったのですから、調査なしにいきなり断定調に「これが原因でした」なんていえないでしょう?それこそ無責任な発言ですよね。従って我々が頼りにできるのは遺族のお涙ちょうだいの発言でもなく、医療側のいいわけでもなく、客観的なデータなのです。プロスペクティブに見てそのときにどういう行動をとるべきかではなく、どういう行動を医師はとるのかと言うことを考えることが大事なのです。それが事故を未然に防ぐ最良の方法であり、結論なのだと思います。実際に我々は当時同じ症例を診て割り箸を見つけることができたか?という議題を与えられればわかります。与えられた事実から考えられることは少なくとも私なら割り箸を見逃していたと思います。
それを論理的に矛盾無く判決文に成就させた今回の裁判官に拍手を送りたいと思います。
by yama (2008-02-20 14:22)
by 元なんちゃって救急医 (2008-02-20 14:31) 

僻地外科医

一つ付け加えさせて頂くなら

一般ピーポー様の下記の発言について
>教育や思想というのは、かなり乱暴な言い方をすれば所詮付け焼き刃の知識です。
死という事態に面し、本能が剥き出しになった際、哀しいかなそれは無力に成り得ます。

 これは無宗教社会の現代日本に住んでいる為の誤解です。人は宗教の為に生き、死に、そして宗教の為に殺します。近くは同時多発テロがその実例ですし、国内でもオウムサリン事件がそれを示しています。古くは十字軍や一向一揆がそうです。

 思想や教育も同じです。ナチスドイツでは思想の為にユダヤ人を虐殺しました。いまでもネオナチズムという思想の為に人が殺されています。中国の文化大革命時における虐殺・迫害も思想によるものです。日本でも赤軍派によるテロがありました。

 変遷はあるにせよ人の心に無力などとんでもない話です。
 宗教や思想というのは諸刃の剣で、人を救うこともあれば人を殺すこともあります。日本でそれを実感することはあまりありませんが、海外ではごく普通の認識だと思います。
by 僻地外科医 (2008-02-20 16:19) 

義理の母が術後の肺血栓で死にました

2/18の書き込みと同一人物のとおりすがりです。ずいぶん失礼なHNだと思います。反省。
なんちゃって救急医先生のまとめ(わかる努力を続けることが大事)が秀逸で、共感することしきりです。

患者および家族にとって、死は受容するだけです。
医療スタッフには、死の受容とともに、それを明日以降の医学の発展につなげる義務というか使命があって、またそれは医療者でなければできないことです。
医療者のおっしゃる「しかたがない」のは、あきらめでもは自己弁護でもなく、今の医学や医療の水準からはしかたがない、明日はむりかもしれないけれど、いつかは解決したい、そのためには、患者や市民のみなさんのこんな協力もほしいという、決意みたいなものを感じとれれば、不毛なすれちがいは少なくなるように思います。
by 義理の母が術後の肺血栓で死にました (2008-02-20 17:22) 

愛する者を亡くした通りすがりです。

医療を取り巻く死生観が大変な議論を呼んでいますね。
横からコメントに参加させていただくことをお許しください。

「遺族の納得」を得るのは、死を説明するひとつの場面だけではないと考えています。もちろん、みなさまもそうでしょう。

付け焼刃で申し訳ないのですが、死の受容のプロセスとして「グリーフワーク」の考え方が私のなかではしっくりきます。
予期せぬ(あるいは予期していたとしても)愛する人が亡くなれば、大変な喪失体験となります。
グリーフワークでは、死を受容するプロセスとして、「ショック」「否認」「怒り・パニック」「抑鬱」「受容」というような精神状態が、ひとによってはさまざまな順番やパターンで移行しながら、時には戻ることもしながら、やがて、亡くなったひとの存在を有意義であったと意味づけをしながら、再生していくことを説明していました。
ドクターのブログですから、当然ご存知なかたが多いでしょうね。
で、この「グリーフワーク」から死を考えると、遺族の否認や怒りは当然のプロセスなんですよね。だからと言って、責任追及しようもないことでおいしゃさんが逮捕されてはたまりませんが、お子さんを亡くされた遺族にとっては湧き上がってくる感情としてはある意味自然なんだと思います。

訴訟を起こして当然と言いたいわけではありません。
もしかしたら、お医者さんが努力しても、遺族からの納得を数日で得ることは難しいこともあるのだと感じたのです。
ただ、悲しみを癒すためにはプロセスが必要であり、それを周囲の人間が否定するのではなく支えていくことができるようになれば、お医者さん対遺族という構図には、必ずしもならなかったりしないのではないかと思ったりします。ただし、必ずしも言い切れないとも言い添えておきます。

幼いころに病気で母を亡くした通りすがりの意見で、稚拙かも知れません。
ちなみに、私は受け入れるまでに2年かかりました。最初は信じられない夢なんじゃないかという思いで「ショック」「否認」、次になんでそうなってしまったのか病気や関わる医療者や私を慰めようとするひとにまで「怒り」を持ちました。周囲の大人や友人に、仕方がないと納得させようとされることに激しい怒りを感じたのです。気づくと無意識に涙が出ていたり、生きていくことに対する意欲が減退しました「抑鬱」。
そして、2年たったあるとき、夢の中で亡くした母とその死について語るという体験をしました。別に霊的な話ではありません。ただの夢です。
でも、そうすることで、いつの間にか母の死を運命として受け入れ、死んでしまった母として、その存在が変わったような気がしました。
強制されてできることでも、最初から意識していたわけでもありません。
悩み苦しみながら、あるいは周囲に迷惑もかけながらも、受容できたのです。今は怒りや恨みはありません。

救命という名のもとに、怒りを一身に身に受ける機会の多いお医者さんは、大変なエネルギーが必要になりますよね。
愛するものの死に対する受容とは、ライフワークにもなりうるくらい誰にとっても膨大なエネルギーが必要なものだと思いました。

長文で失礼しました。
なんちゃって救急医先生のブログを読ませていただいて、お医者さんがどういう視点でものを考えているのか、勉強になっています。
これからもお体をなるべくご自愛くださって、がんばってください。
by 愛する者を亡くした通りすがりです。 (2008-02-20 17:35) 

僻地外科医

>義理の母が術後の肺血栓で死にました、さん

>医療者のおっしゃる「しかたがない」のは、あきらめでもは自己弁護でもなく、今の医学や医療の水準からはしかたがない、明日はむりかもしれないけれど、いつかは解決したい、そのためには、患者や市民のみなさんのこんな協力もほしいという、決意みたいなものを感じとれれば、不毛なすれちがいは少なくなるように思います。

 おっしゃっていることは2つの命題を含んでいますので分けて考える方が良いと思います。

 一つは今の「医学」水準で助け得たのに医療水準では助け得なかった場合です。
 救急医学・外傷外科の用語にPTD(preventable trauma death)と言う言葉があります。直訳すると「避け得る外傷死」という意味です。この用語は大変誤解を招きやすいので注意が必要ですが、要するにその時代の最高の医療水準では十分助け得たのに、診断医の技量、マンパワー、用具、時間、手順の前後、搬送体制などどこかが欠けていたなどの為に助けられなかった外傷による死亡を指します。
 このように後から考えてみたら「ここはこうすれば良かった」というのは医療には常につきまとうもので、このために患者さんを亡くすことは往々にしてあります。

 これに対しては医療者は全力で無くそうとしています。ただ、現在問題なのはその時考え得る最高の手段を取らなかったことを理由に我々は訴えられ、時に逮捕されます。そのようにして医療者が現場を離れてしまうと、これは経験という形で次の医療に生かすことが出来なくなります。これは我々がしている努力を患者さん側から妨害している様なものだと思います。あえて言うならばこのことは患者さん側にも協力願いたい部分だと思います。

 もう一つの命題は現在の「医学水準で助けられない」場合で、研究が進めば将来は助けられるかも知れないという可能性の問題です。

 これは必ずしも推し進めればいいと言うものではないのです。現在の医学水準を超える医療を将来実施する為には、やはりそれだけのコストがかかります。そして、それだけのコストをかけた結果、助けられるのがたとえば1000万人に一人である場合、本当にこれを実施して良いのかというのは重要な社会的命題です。その分のコストを他に回せばもっと一般市民の生活が良くなるかも知れないし、あるいは医療水準の低い地域の人を何万人も助けれるかも知れない。今でも、心臓移植一人にかけるコストで発展途上国の人を何千人も助けることが可能です。
 人の命はお金で計れないというのは、誤解を招く表現であることを覚悟で言いますが、大きな欺瞞です。人の命は経済的要因によって左右されるものなのです。これは時代がいくら進んでも同じです。
 だったら、何処にどうコストをかければ効率的に命を救えるかと考える方が建設的ではないかと思います。

 我々は現在の医療で避けうる死、避けうる障害については努力していると思います。ただ、そういった努力は何故か報道されることは少ないですし、逆にトラブルがあった時には過剰にバッシングを受けています。

なんちゃって救急医先生が、このブログの本来のテーマ(地雷疾患の周知・教育)から時々離れて医療報道のことを書かれるのも私と同じ気持ちからだと思います。
by 僻地外科医 (2008-02-20 18:08) 

僻地外科医

>愛する者を亡くした通りすがりです.. さん

 ご指摘になったグリーフワークに関しては終末期医療の基本ですので私もある程度理解しております(少なくとも頭の中では)。

 愛するものを亡くされたご家族が怒るのは当然だと思います。
だからこそ、上に挙げた大野病院の件で(http://lohasmedical.jp/blog/2007/12/post_991.php#more
加藤医師は患者さんが亡くなった直後、ご遺族にひたすら謝り、後にはお墓の前で土下座までしたわけでしょう。

 問題はその受容プロセスの阻害要因です。
 前ハーバード大准教授の李啓充先生の一文をご覧下さい。
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2002dir/n2492dir/n2492_03.htm#00

 2つ立て続けの医療過誤に巻き込まれた子供と夫を亡くした女性のお話です。

 結局のところ裁判はこの受容プロセスを進めるものではないと言うことなのです。
 考えても見ましょう。周囲の方がずっと「あの医療過誤は許せない」と叫び続けていたら、、、あるいは裁判ですから相手の方はそれに対し反論してきますので、その反論を聞き続けていたら、、、。受容のプロセスはいつまでも「怒り」のままではないでしょうか?

 現在進められている「診療関連死法案」に我々が反対するのも、一つにはこれが理由です。あえてなぜ調査委員会で得られた証拠を刑事訴訟へ持ち込むとするのでしょう?担当医を刑務所に送り込めば受容のプロセスは進むのでしょうか?

 中立的第3者機関の必要性は、このブログの今回や過去のエントリーを見てもお分かりの通り、医師の多くが認めていることです。私もずっと必要性を訴えてきています。でも、現在の法案では「患者さん・家族の納得の出来る」ものなど出来るわけがないと思います。
by 僻地外科医 (2008-02-20 18:45) 

一般人です

まったく建設的でないですが、医学が進歩しなければ、納得もずっと得やすいと思います。

医師不足も、医療費上昇(上昇して当然なところに削減策があるので問題なのですが)も、医療訴訟の増大も、医療全般における患者や家族の納得のハードルが高くなっていくのも、きっと「医学の進歩」と「情報伝達の進歩」のせいだと思います。
by 一般人です (2008-02-20 20:28) 

元なんちゃって救急医

>一般人です様

「医学が進歩しなければ、納得もずっと得やすいと思います。」

実は、私も、ず~~と同じことを考えていました。今も考え続けています。
by 元なんちゃって救急医 (2008-02-20 20:41) 

ハッスル

一般人です 様
僕は医療者ですが、きわめて共感します。

”学問としての医学の進歩”と”目の前の人が受けられる医療の進歩”は同じではありません。謎が解ければ解けただけ(アキレスと亀?)、その前には謎が残ります。
メディアが流す情報は身近感を持たせ、刷り込んでいきます。そして意識に残る報道はネガティブな情報が自然と多くなると。リテラシーが無いとあおられるだけあおられます。

僻地外科医 様
医療とお金の話にきわめて共感します。
医学の発展によってランニングコストと人件費がかさみ、それに見合った経済成長と人的資源の確保が追いついていないんでしょう。

医師として
”ああすればこうなるからこう考えておきなさい”
と説明して聞き入れていただけるためには、信頼が前提です。
rioさんが患者さんであればそうしますが、それで反発される家族も山ほどいます。会話したくないと思う患者・家族もたくさんいます。
死生観なんて人それぞれです。

意思も患者になり家族になります。そのときは同じ立場です。医師で家族で、周りから決断を求められたらそれも辛いことです。
by ハッスル (2008-02-20 22:16) 

あと二年で後期高齢者

   
  数ヶ月前に貴ブログに出会い、毎日数エントリーづゝ読み続けて やっと当日版が読めるまで追いつきました。貴重な記載に目も心もウロコが剥がれ落ちる日々です。二三日前、NHKが 「たらい廻し」の語を使用した際には〝止めなさい"と投稿しました。このブログに出会ったことは有難い経験と思っています。さて、

以前のエントリーで もっと詳しいお話があったかと記憶していまして少しだけ探しましたが見つからないので、僻地外科医様(2008-02-17 01:33)のご投稿から引用します。(割り箸の件の関連です)。
>> 小脳に達していたと言うより、頸静脈孔を貫いていた(抜いたら大出血、しかもバイパス不可能)というのが救命が無理な理由だと思います。別に小脳に割り箸が刺さっても、抜いてしまえばどうってこと無いです。<<

この状況 [(少し中略)頸静脈孔を貫いていた、というのが救命が無理な理由だ] は解剖によって判明した事実ですが、もしも 現在の診断技術が当時この状況を的確に診断把握できる状況にあったと仮に考えた場合、お子さんの命がいくばくもないことはお医者様には判っきり ご理解お出来になったことゝ考えられます。それも、手を加える(手術をする)ことが その場での死につながる と云う状況のわけですね。
このような時、お医者様は患者のご両親に、状況をどのようにお伝えになるのでしょうか。そのご心労は私のような一般人間には想像すら出来ません。

どのような話し方で、このまゝ死期を待つのが最良の方法であろうとお伝えなさるのか、考えただけで心が痛みます。

このブログを拝見していて、たゞ一つだけ笑ってしまった(不謹慎?)コメントがあります。 >> まあ、答えがある訳じゃありませんが、人間長生きしていただくのも他人事でなく、巻き込まれる側に立てば、大変です。<<    [どなたのものか記憶していなくて済みません。]

なお、私はずいぶん以前から マスコミというものは 「何を書かないか」によって、「何を書くか」よりも 強く世論の誘導をしていると考えています。その誘導があるから、たった一つの記事で世間の考え方を一気にそちらへ靡かせることを簡単に出来ているのだと思います。
マスコミの金言(?)『犬が人を噛んでも記事にはならないが、人が犬を噛んだら記事になる』 所詮、センセイショナリズムだけで飯を食うのが寄生虫の生き方でしょう。
  
by あと二年で後期高齢者 (2008-02-20 22:54) 

tomopons

救急をやっていると、いかに死を迎えるか、日々考えさせられます。多くの人は家族の最後をどのように迎えるかなんて考えていません。たまに延命処置は希望しませんという家族がいますが、延命治療とは何から何までをいうのでしょうか?医療がなければその日に無くなる人。点滴すれば数日生きる人。栄養入れれば植物状態で生きる人。透析すれば1か月以上生きる人。人工呼吸器をつければもっと生きる人。救急で来てしまうと蘇生処置が始ってしまい、あとから家族がくることもあり、あとで延命処置は希望しませんと言われても今の倫理ではやめられなくなってしまうことがあり、非常に困りますし、それなら高度救命センターではなく、かかりつけ医に看取ってほしいとも思います。
by tomopons (2008-02-20 22:55) 

K.U

医療上の死において、家族が納得しないといけない、納得させないといけない、と考える時点で個人的には違和感を感じます。

死はすべての生物で受けいれざるをえないものですから。

家族どころか、当事者そのものが不満もなく納得できて死ぬ、なんていうことがどれほどありえるのでしょうか。少数例ではありえても、大多数ではありえないんじゃないでしょうか。

納得するしない、そんな考え方が前提であれば、根本的に医療というのは無い方がよっぽどマシだと思います。
by K.U (2008-02-20 23:08) 

フィッシュ

「医学が進歩しなければ」、と私も考えていました。

私が最初に就職した病院は、「日本に3台しかないCTの1台がある」先駆的な病院でした。え、いつの時代かって?私はまだ40代です。
その頃から救急医療やICU、透析などが飛躍的に発展して、多くの大切な命が助かったことでしょう。

働き始めた頃は、今思えばのどかな時代だったなと思います。
わずか4半世紀で世の中はここまで医療に求めるようになったのかと、最近の裁判や報道をみて、なんだか違和感というか、虚脱感というか・・・なんともいえない気持ちが消えません。

少なくとも私と同年代以上の方たちは、医療が十分でない時代の記憶があると思います。「運命だった」としか気持ちの持って行き場がない状況が多かったと思います。「できる限りのことをしてください」と家族にお願いされても、人工呼吸器どころか心臓マッサージを続けることぐらいしかできなかったのも、それほど昔のことではないと思います。突然の事故死、幼い子供たちの理不尽な死も、どうしようもないことがたくさんあったことでしょう。。

医療機器や治療法が進歩した分、治療に対する期待が高くなり、「人の力ではどうしようもないことがある」という限界が見えにくくなったのでしょうか。振り子のように、ちょっと前の時代の記憶と現代を行ったり来たりしながら、医療にどこまでを求めるのか考えてみるとよいのかもしれません。
そしてその振り子も左右だけでなく、時にはちょっと違う角度で、僻地外科医先生の書かれたように、「医療水準の低い地域で、どれだけの人が助かるか」ということも考えられたら、たとえ寿命が短くなっても良いかなと思います。
by フィッシュ (2008-02-21 01:30) 

R

私は医療従事者ではありませんが、

>その際に、「このケースは誰も責められるべきではない」と専門的に判断し、遺族に納得させられるのは医者だけです。言い換えれば、それも含めて医者の仕事なのだと思います。

>患者の多くは治療の成否と同等か、或いはそれ以上に先生の人間性の豊かさを求めています。

といった考えは一般人(非医療者)の甘えすぎではないかと思います。
一体、医師に、又は医療従事者に対してどれだけ要求しようと言うのでしょうか?

医療・医学に関する幅広くそして深い専門知識と、熟練した手技と、
地雷を見抜くための観察力と洞察力と、修羅場における判断力と、
傷つき苦しんでいる人の心に寄り添える深い共感力と、
死を許容できない人に現実を見詰めさせ納得させるだけの技術と、
死が日常にある環境と他者の命を預かっているという重圧に耐え、
いかなる時にも冷静さを失わないだけの精神力と、
24時間365日不眠不休で戦い続けられる体力と、
そんなものを全て備えた人間が一体どこにいますか?

理想を唱えれば確かに全てを兼ね備えた人物が理想なのかもしれませんが、人が人であり、神でない以上、そんな事は不可能です。

普段は病気や死というシビアな現実から目を背けて医療の場に放り投げておいて、
いざ、自分が病や死に直面した時にはそれに耐え切れず、悲しみや怒りを医療従事者にぶつけ、
「オレたちはスーパーマンじゃない!」と言われたら、「そんな言い方は冷たすぎる!」と返す、というのはあまりにも幼稚で甘えた態度ではないでしょうか?
医療に対する要求はどこまでも高く、けれど自分では何もしない。何もしなくとも完璧なものが与えられて当然と思っていて、少しでも期待したとおりの結果が得られなければ声高に非難する。
いえ、これは医療に対してだけでなく、教育とか、食の安全だとか、政治や行政、全てに対してがそんな風潮であるようにも思えます。
by R (2008-02-21 02:10) 

沼地

「医学が進歩しなければ、納得もずっと得やすいと思います。」

というほどに医学が進んだと言う気はしません。

たくさんある病気のうち原因が判っているものがどれだけあるでしょう?
原因が判っているもののうちでどれだけが治療法が確立しているでしょう?

骨系統疾患の診断を専門にしてる人が自分をバードウォッチャーにたとえてました。
珍しいものを集めて分類するだけ。
親がふたり目どうしようと悩んだ時に次の子も同じ病気の確率が何パーセントであるか教えることができるだけでも正しい診断は重要ですけど。

病院に来た多発骨折の子が虐待を疑われ、単純写真が専門家にまわされ、もともと骨が折れやすい病気なだけと判ったことが有ります。

虐待じゃなかった、よかったね?

子供の障害は??

.......治りません。

医学が進歩しなければいいと思ったことはありません。

まあ、自分では修羅場を経験したことが無いからかもしれませんが。
by 沼地 (2008-02-21 07:04) 

単純内科医

医者に温かみを求めるのは心情的に理解できることです。医者はそれを否定していません。むしろ献身的に努力していると思います(大多数の医者は) かっては医者にそれをするだけの余裕を与えていた、環境を整えていた。だから医者になり人の役に立ちお礼の気持ちとしての感謝を受け取りたかった。しかし、今では医者が余裕のない環境に追い込まれ、常に訴訟の危険性におびえている。だから医療を単なる仕事としてみるようになったのです。それだけのことです。当たり前の結論ですが、医者も常に努力しなければなりません。患者も完全な姿を医者に求めることを止めねばなりません。(もはや医療は商売になりさがっているのですから) 冷静に考えれば日本の医療が世界に比べて劣っているとは思いません(むしろ費用と効果から考えれば世界でも有数だと思います - それについての感謝が全く聞こえてこないで批判ばかりされたら 嫌になりませんか 一部の不心得の医者がいることは間違いありませんが それをもって医者像に一般化してしまう稚拙なマスコミの洗脳されないでください)
by 単純内科医 (2008-02-21 07:24) 

義理の母が術後の肺血栓で死にました

>>僻地外科医さま
コメントありがとうございます。整理していただき、私自身の考えも整理できました。
1点だけ。
>>人の命は経済的要因によって左右されるものなのです。これは時代がいくら進んでも同じです。だったら、以下略。
医学の進歩とともに、この状況を変える(明日にはむりでしょうが)こと、先進国の心臓移植と同じコストで、発展途上国の何万人という比較をしなくてすむ、という社会を構想することは、夢なんでしょうか。
もちろん、今の状況で、こうした選択をされること、そのご心労は「理解」させていただいているつもりです。
あるいはこうも言うことができます。ドクターの「労働条件」を緩和する=普通の人なみにするとか、今の受け入れ不能状態の救急の打開のため、たとえば、医療費が倍になる、消費税が30%になる、云々だとして、それの賛否を考える、ということも、患者、市民側の責務であると思います。不幸な死者をなくすためどれだけの負担が必要なのか、そんなにかかるんだったら救えなくても今の時点ではしかたがない、ということを考え続けるということです。>>Rさまもいうように、「何もしなくとも完璧なものが与えられて当然と思っていて」ということだけにはなるまいと思います。
その意味で、先日コメントしましたが、ドクターとしての激務をぬって、地域医療の講演会などでお話しいただいたりすることに本当に敬意を払っております。
長文失礼いたしました。また、とおりすがりなりromに戻ることにします。
by 義理の母が術後の肺血栓で死にました (2008-02-21 10:18) 

義理の母が術後の肺血栓で死にました

連投すみません。
>>僻地外科医さま
>医療者は(避け得る外傷死を)全力で無くそうとしています。ただ、現在問題なのはその時考え得る最高の手段を取らなかったことを理由に我々は訴えられ、時に逮捕されます。そのようにして医療者が現場を離れてしまう。
 ご趣旨は賛成です。「最高の手段を取らなかったことを理由に訴えられ」ている文の直前に、「そのときの考えられる最高の手段をとっていたにもかかわらず、空想的な(最高の)」という一文があれば、誤解されなくてすむと思います。

最後に、忘れてました。
私も、福島事件で逮捕された医師の無実を信じ、支援しております。
by 義理の母が術後の肺血栓で死にました (2008-02-21 10:29) 

愛する者を亡くした通りすがりです

>僻地外科医さま

私の拙い考えにコメントくださってありがとうございます。
大野病院の先生の件、私も無罪を支持しています。

また、参考文献を教えてくださってありがとうございます。
グリーフワークは、もう何年も前に勢いで読んだものですし、私自身が理解しやすいように覚えているので、正確ではなかったかもしれません。

先生のおっしゃったように、私も、「受容プロセスの阻害要因」が今の世の中には蔓延しているという気がしてなりません。
「受容」は、個人のなかで行うものだと思います。
誤解を招いたのかもしれないので、申し上げますが、私も、裁判で怒りを長期にわたって叫び続け反論されまた叫ぶということは、「怒り」からの脱却を阻害する要因だと思っています。
(医療の不確実性を前提としたケースにおいてです)
おっしゃるとおり、反論され続ければ、より大きな怒りのエネルギーを生み出すでしょう。
加えて、遺族の怒りを静めることは容易なこととも思いません。
神にすら呪いの言葉を吐いていると思います。

法案のことは私も違和感を持っていることも付け加えておきます。
私は、公的制度によって全てを解決するのはナンセンスだと思っています。
だからこそ対立ではなく、個々人の意識改革によって実現するのではということに希望を持っています。
事実、私は実体験とグリーフワークの文献に出会ったことによって初めて、数年間の自分の心の変遷を説明することができました。(自己満足であったとしても)

ドクターがマジシャンでも神様でもないことも承知しています。
お医者さんを責めるとかそういうことではなく、「受容のプロセス」は、「個人」にとってのライフワークで、システムとして完全に補うことができるということでもなく、ひとつひとつの幸運と出会いと努力の積み重ねによって、結果的に行われているものだと思っています。

教養の乏しい人間の申し上げることですから、お見苦しい内容だったのかもしれません。20代でこれだけの博識なみなさんとお話してみようと思ったのも浅はかだったと思います。
私のコメントで不快感を覚えられたかたには陳謝いたします。
申し訳ありませんでした。

皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
by 愛する者を亡くした通りすがりです (2008-02-21 13:55) 

僻地外科医

>愛する者を亡くした通りすがりです..

 こちらも誤解を招いたかも知れませんので一言。

 愛する者を亡くした通りすがりです.. の取り上げられた問題提起は極めて重要であると思います。私はそれに反論したのではなく、上げられた問題提起に関して掘り下げて一つの解を上げたに過ぎません。

なお、

>お医者さんを責めるとかそういうことではなく、「受容のプロセス」は、「個人」にとってのライフワークで、システムとして完全に補うことができるということでもなく、ひとつひとつの幸運と出会いと努力の積み重ねによって、結果的に行われているものだと思っています。

 この点に関しては欠けるところ無く同意します。非常に重要な回答だと思います。こういう言葉が医療人ではない一般の方から出てくることは大変嬉しく思います。

 ありがとうございました。

 
by 僻地外科医 (2008-02-21 14:49) 

愛する者を亡くした通りすがりです。

>僻地外科医さま。

早速のコメントありがとうございます。

なんとなくびくびくしていたせいで、先生の行間から怒りを感じ取ってしまったのかもしれません。
お互いのスタンスがわからないと、このように意図を読み違えてしまうこともあるのだということと、勇気をもってお話すれば(それに誠意をもって応えてくださるからこそ)このように、見解を共有できることもあるということを実感し、感激しております。
お医者さんはなんとなく近寄りがたいと勝手に思ってしまうせいかもしれません。怖いなんて、お顔を見たこともお話したこともないのに変ですね。先入観もあり、怒られたと思うと逃げ出したくなりました。。。
早とちりをお詫びします。

そしてありがとうございました。

この経験をもって、私は周囲の人には、話し方を考えて心をニュートラルな状態にして、お話すれば、きっとお医者さんともお話できるって、自信をもって伝えられると思います。

なにしろ、患者とお医者さんは対立する関係では成り立たないはずですものね。明るい気持ちになりました!
本当にありがとうございます!!
by 愛する者を亡くした通りすがりです。 (2008-02-21 15:28) 

元なんちゃって救急医

コメンテーターの皆様に感謝いたします。

多くのROMの方々にもきっと何かが伝わってると思います。

ありがとうございます。
by 元なんちゃって救急医 (2008-02-21 15:36) 

僻地外科医

>義理の母が術後の肺血栓で死にました、さん

 コメントが前後しました。

>医学の進歩とともに、この状況を変える(明日にはむりでしょうが)こと、先進国の心臓移植と同じコストで、発展途上国の何万人という比較をしなくてすむ、という社会を構想することは、夢なんでしょうか。

 これは夢というか、医学の進歩の問題じゃないと思います。むしろ国際政治経済の問題だと思います。発展途上国の医学・衛生状態が改善すればこういう比較をしなくて済むと思います。

 ただ、医学は進歩すればするほどコストがかかるという側面を持っています。ハッスル先生がおっしゃったように現在は医学の発展に経済の発展が追いついていないというのが事実だと思います。しかも現在の地球には地理的なフロンティアがありません。つまり新たに経済を爆発的に伸ばす要因がないと言うことです。少なくとも日本にはそんな要因はありません。この状況下で日本の医学をさらに進歩させるかどうかについては、もっと十分な国民的議論が必要なのではないかと思います。
by 僻地外科医 (2008-02-21 15:44) 

moto

エントリー本文中の
>納得のプロセスには教育、宗教の問題が大きい(僻地外科医様のコメント)
に関してなのですが、わたしは、現代人が忘れてしまいがちなキーワードとして「謙虚さ」を挙げたいと思います。
医学や科学はこれからも発展するでしょうが、全能にはならないでしょう。どこかで、諦めること、限界と感じて断念することが求められます。
そのことを受容しやすくするために、絶対的な「神」という概念を想定して、相対的に人間の不完全さをわかりやすくする手法が宗教であると思います。
神でなくてもいいのですが、絶対的な何かを想定して、相対的に己の無力さを日ごろから自覚する訓練、すなわち、謙虚さを学ぶことが、教育のどこかに組み入れられると良いとは思うのですが。
「神」はちょっと誤解されやすいですから、「自然」とか「宇宙」とかかな?
by moto (2008-02-21 16:08) 

moto

続き)
患者が医者を神のごとく絶対視してしまうのはよくないですね。
そうではなく、患者も医者も、絶対的な何か(自然?宇宙?)に対して、共に謙虚であるよう、こころがける必要があると思います。
もちろん、医学はこれからも発展していくべきですし、そうなることでしょう。
by moto (2008-02-21 16:16) 

なあ

死をいかにして受容するかというのは難しいことですね。
宗教や社会の役割でもあるように思いますが,今の日本ではそれは機能しているとは言いがたい。
たとえば家族など,悲しみを共有する人たちのグループで,心理療法のセッションを受けることなどが勧められるようになると,ちょっとは違うかもしれません。
お葬式や仏壇にお金をかけるより,訴訟を起こして争うより,ずっと効果的じゃないかと思います。
by なあ (2008-02-21 16:30) 

doctor-d-2007

活発な議論、非常に参考になりました。
議論が一段落した所で申し訳ありませんが、医師の立場として一言申しますと、医師ー患者間の齟齬が生じるのは、双方に信頼関係が成立していないからです。

信頼関係が有れば、少ない言葉でも納得頂けるでしょうし、
信頼関係がなければ、いくら説明を尽くしても納得される事はありません。

医療全般的な信頼感が失われた社会となっているから、齟齬が生じやすいと単純に考えては如何でしょうか?

では、なぜ医療の信頼が無くなったのか?
それは、信頼を崩す機関が存在したからだと考えます。
そういったものに騙されないようにして、国民と医療とをしっかりと信頼関係でつなぐ事こそが大事だと考えます。
by doctor-d-2007 (2008-02-21 16:30) 

ハッスル

doctor-d-2007 様

機関とは、メディア、行政、司法でしょうか?そこにも医療者が介在していると思いますし、意識・無意識的に後ろから攻撃していることも多分にあると思います。
情報がこれだけたくさん入ってくると、その恩恵と同時に負の側面を抱え込むことに心構えがないと(リテラシーでしょうか)、知らず知らずに不信感が増幅されるようになると今は考えています。

宗教は、専門的なことはわかりませんが、日本は一神教ではなくいろいろなもの(実体のないものも)に、魂や心を見てきたのではないでしょうか?そのことで、喪失感や感謝など(看取りの準備も)をトレーニングし、受け継いで生きてきたのではないでしょうか?

マニュアルでも法律でもないところに、課題があると思っています。
by ハッスル (2008-02-21 17:54) 

沼地

言いにくいことですが、基本的なことを言っちゃえば信頼できる人と信頼しないほうがいい人がいるわけです。

そしてもちろん医師にもいろんな人がいるのです。
すべての医療関係者を信じろと言うほうが無謀でしょう。
今回の議論のもととなった割り箸事件の医師には何の過誤もなかったと思います。
でもそうではない場合もあるわけです。

ところで医師はたとえ偏りの激しい患者さんが来院してもふつう拒めません。
でも患者さんはどの医療機関を受診するか選べるわけです。
ひとり信頼できる主治医をみつければ、その主治医の専門でない病気を発症した場合には医療者の目で見た信頼できる医療機関に紹介となるでしょうからちょっと安心です。

「医者選びも寿命のうち。」とかここで言ったらお叱り受けるかな?

救急の場合は選べないのでなんちゃって救急医さんとこに運ばれたいなどと思ったりしますね。
by 沼地 (2008-02-21 20:18) 

元なんちゃって救急医

宗教がなぜ、古代の人間の間で、形は違えど、普遍的なものとして広まったんでしょうね。当時は、現代のような情報を通して、互いを知ることができなかったはずなのに・・・・・・。 ある宗教は、一人の神をたて、またある宗教には、神はいない・・・・

何か、そこに、人の生死としての根源的・普遍的・永続的なものを、私は感じます。

私は、老子・荘子の思想が、すばらしいと思っています。

医療は、人生の中では、副次的なもの・・・・・
がんばりつつも、がんばりすぎず・・・
ある目標ををめざしても、そこそこで満足し・・・
上手くいくのも、そこそこで・・・・
上手くいかないのも、そこそこで・・・・

自分に求めなすぎない。だから、他人にも求めすぎない。

だから、死の受容も、そこそこでいい。
自分も家族も患者も、それは皆一緒・・・・

最近、このような心境になってきました。
by 元なんちゃって救急医 (2008-02-21 20:48) 

今回のみ匿名で

身内を自死により亡くしました。それこそ誰をも責めようのない死で、身内のものは「育て方がいけなかったのか」「なまじ才能があるだけに苦しみも深かったのだろうか」「あのとき一言かけていれば死なずにすんだのでは」と自分を責めました。

今でも深い傷になっています。しかし「神与え、神取りたもう」という心境にいたり、ようやく受容できたように思います。宗教心というようなものはない家族ですが、それでもそういう形で受容することは可能ではないかと思います。
by 今回のみ匿名で (2008-02-21 21:02) 

元なんちゃって救急医

>今回のみ匿名で 様
>それでもそういう形で受容することは可能ではないかと思います。

経験したものではないと語れないご発言だとおもいました。
また、一つ気づかせていただきました。
ありがとうございます
by 元なんちゃって救急医 (2008-02-21 21:10) 

義理の母が術後の肺血栓で死にました

昨日から考えていたことです。

>>僻地外科医先生には、こう整理していただきました。
一つは今の「医学」水準で助け得たのに医療水準では助け得なかった場合です。避け得る外傷死問題。
 もう一つの命題は現在の「医学水準で助けられない」場合で、研究が進めば将来は助けられるかも知れないという可能性の問題です。

医学の進歩とかは、後者の論点で、これは、私の「夢」だとか、そこそこでいい云々の論点がありますが、これはさいきんの喫緊の課題ではないと思いました。
で、一番目の避け得る外傷死について、そのときに考えられる最高水準について、3つに整理できるかなと考えました。「そのときに考えられる」ですから、後だしじゃんけんはふくみません。

1、診療医の技量
 なな先生につられてみました。http://blog.m3.com/nana/20080221/2
医療者の責務としてがんばてください。
2、マンパワーや体制
 さいきんに救急応需不能状態がそうですね。この出口は、医者をふやす、救急体制を整備するなど金がかかることです。死生観=延命の是非ともかかわってくるかと思います。これは、社会が、医療者の科学的知見をふまえ、負担と便益を考慮して決めなければならないものです。でも基本的にオープンエンドの制度設計です。
3、制度
 後期高齢者問題で、診療料月額600点という水準がどの程度の医療がわかりませんが、こうした制限から、医療者として最高と考えられる医療ができなくなる事態が将来的に考えれます。負担を重視してクローズドエンドにして、この範囲内での最高でやってよ、ということを決めるのは、これは、社会側の責任かと思います。
by 義理の母が術後の肺血栓で死にました (2008-02-22 10:26) 

僻地外科医

>義理の母が術後の肺血栓で死にました、さん

 明快なまとめだと思いますが、一つ追加で。

4.教育体制の不備
 これはかなり大きな要因です。心肺蘇生法の標準化されたプロトコールであるACLS(ICLS)にせよ、外傷初期治療ガイドライン(JATEC)にせよ、まだ普及が不十分で特に僻地にいる場合には容易に受講出来ません。私は独学で勉強していますが、ACLSもJATECもいまだにとれていません。
 また、それ以上に心肺停止時にはそばにいた人が心肺蘇生をいかに早く始めるかが生命予後を大きく左右します。しかし、普通救命講習の普及率は全国的には10%未満です。JPTEC(病院前外傷評価プロトコール)に至っては救急隊員以外で受講している人はほとんどいないでしょう。
 このようなことが原因で助けられなかった外傷死も広い意味ではPTDに含まれると思います。
by 僻地外科医 (2008-02-22 10:49) 

田舎の消化器外科医

突然の死の受容が、けっして医師だけの仕事や責務でないことは、当然ですし、どうしても論理的な解説を受け入れられないご家族が、一定割合居られることも間違いありません。一方、死に際しての、医師の態度、言動は、死の受容への第一歩となることも間違い無いと思います。
約10年前に、大学の助手時代に半年だけ、救急部配属となったことがあります。それまで、悪性腫瘍など慢性の経過を辿って亡くなる方が殆どであった環境から、CPAや来院後短時間で亡くなる方を多く診る様になりました。
そこで、痛感したことは、「医師には演出家の才能が必要である」ことです。
来院した段階から検査処置を経て、死が避けられないとわかったときに、瞬時にこの家族に対して、どのような看取らせ方が、一番ふさわしいか、という観点で考えるようになりました。その結果、病室の環境の工夫や、どの言葉を選ぶのがこの家族にとって一番適切か気を配るようになりました。
今から、考えると、その時点で、家族のグリーフワークを始めていたのだと思います。そして、その経験は、外科に戻ったその後も、生きていると思います。
by 田舎の消化器外科医 (2008-02-22 22:26) 

元なんちゃって救急医

>「医師には演出家の才能が必要である」

ありがとうございます。
私も、全く同じことを考え、自分なりの実践をしているつもりです。
by 元なんちゃって救急医 (2008-02-22 22:43) 

こんなの考えてます

一通り拝見して、色々な問題が存在する中で
一つ参考にはなるかなという本からの情報です。

キーワードとしては「依存」です。
人間が安定した精神状態で生きていく中で
特に現代では多くの人が多かれ少なかれ依存しているのではと思います。

例えば医療関係の方なら薬物やアルコールに依存している
患者さんを診られることもあるかと思います。
これは極端ですが、最近は携帯電話に依存していて手放せない
なんて話も聞くようになりました。

これを人生に置き換えてみると、仕事だったり家庭
あるいはお金、車、肩書き、自分自身(心)などなど
人によっていくつも依存していたりする事はよく見られます。

私が読んだある本はその事について
今現在依存している全てのことが不確実で頼りどころのない対象だと
書いてありました、それは当然でお金があっても貨幣価値は
変化しますし、物も当然その価値は変わります。
仕事も家庭も自分自身の心さえも全てが変化していくものであり
ずっと同じなどと言える物はありません。

例えばその依存状態、依存対象が複数に分かれており
そのうち一つを失ってもどうって事無いケースもあるでしょう
ただ対象が一つで、全てであった場合その対象を失う事で
何もかもを失ったような状態、最悪自死と言う事も十分あるでしょう。

そういった対象に拠り所を置く(依存する)と言う事自体が
不安定で矛盾しているわけです。

そういう意味で宗教は優れた対象です。

(ここからは無宗教の私の意見です、そして一部の方には不快かも知れません)
いろいろな宗教においていろいろな神が存在しますが
その神は信ずる心が支えているといってもいいかもしれません。
要するに事実が無いわけです、死にもしなければ病気にもならない
概念的には無いものを掴もうとしている様な行為と言えるかもしれません。
逆に言えば信じてさえいれば変わらない不変なのです。
(しかし、宗教がすべてではない事は当然です)

人が恐れるものの一つに変化があります、毎日変わりばえのしない日常でも
必ず変化していく人生の中で、何を拠り所にして生きていくのか
取り方によっては非常に後ろ向きかもしれないですが
何も頼りにせず生きていくか、考えても答えはでませんが、一つ参考になれば
と思い長々と書いてみました、稚拙な文章に最後までお付き合い頂き
ありがとうございます。
by こんなの考えてます (2008-02-25 05:04) 

忍冬

はじめまして。自分や家族の生死にかかわる入院経験のある一般人です。

ぽっと出の一般人の私が、受けた医療に対し、医療者の方も納得されると思われる評価がすぐにできるようになったのは、3ないし4回目の入院からのような気がします。

医療を受け慣れていないと、人が病んだり死んだりすることも経験知としてよくわかっていない上、お医者様の話もわからない、わからない事を納得いくまで質問していいのかもわからない、病院での振舞い方もわからない、ないないづくしです。その上「謝礼はお断りしております」なんて張り紙をナースステーションで見つけて動揺してみたり。

一般人レベルで読み、調べ、思いだし、考えするうちに「あの時点・場所でベストの医療が行われたのではないか」と思うようになりました。評価の基準が素人なりにできあがった感じです。直接利害の絡まないお医者様の意見をうかがう機会を得たことが大きかったです。不正はどこにもなかった(そんな風に思ってしまっていました)。

勉強?してみて、自分がいかに知らないのかということがよくわかりました。1回目の入院で知りたかったことをすべて納得がいくまでお医者様にうかがうというのは、物理的に不可能だったと思います。直接関係ないようなことも受容に役に立つことがあります。また、頑固なので納得には時間がかかりました。

自分としては、評価が出来るまで学ぶというのは大事だし得たものは大きかったと思います。子供にはそういう話をしていますが、もちろん家族がなくなったことも隠さず伝えておりますが、どんなふうに育つかはわかりません。
by 忍冬 (2008-02-25 10:28) 

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