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五輪旗で医療崩壊を語る(その2) [雑感]

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本日のエントリーは、五輪旗で医療崩壊を語る(その1)  の続きです。

「5」:心の問題(医師側)について

医師側の心の問題がどのように医療崩壊に関係しているかについて考えてみます。一言でいえば、医師のモチベーションの低下ではないでしょうか?その結果、社会現象として注目されたのが、小松先生が最初に言われた「?Aμi?e・?\μ\U\?!?\,\a" target="_blank">立ち去り型サボタージュ」という現象だと思います。

(1)失望感・無力感
人の心というものは、様々でしょう。だから、ここでは、自分の感情を中心して、失望・無力感を考えてみたいと思います。もしよろしければ、コメント欄で皆様の心のうちをお聞かせ願えれば、多くの非医療者の方々に、今の現状に対する医師の内面というものをお伝えできるのではないでしょうか? 個人的には、福島大野病院と奈良大淀病院の事例を通して、今の医療事情に対して、途方もない失望感・無力感を深く深く感じました。そして、感情の波は上下しますが、この失望感・無力感は、今も心のどこかで感じ続けています。 かつて、mixiに書いた2006年10月26日の私の日記(マイミク限定)を振り返ってみました。こう綴られていました。大淀病院の事例がマスコミによって連日ヒステリックに報道されていた頃の日記です。

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=***   ←(大淀病院を報じるmixiニュースのURL)

皆さんもご存知のこのニュース。

ネット内では、いろんなところで「医師」が吠えています。
「やってられるか!!!(怒り)」 ということで。
マスコミに対する医療報道のあり方への怒りが一番多いです。

私自身、複雑な気持ちで事の推移を見ています。
なんせ、明日はわが身の立場ですから。

自分のことを自己評価すると、正直一生懸命やっていると思う。一症例ごとに、自分のあらゆる知識を総動員して、その場での最善の患者アプローチを考えている。人一倍頭をつかっているという自負はある。いくら頭だけ使っても、保険点数にはなんらかわりはないのだが、それでも自分は頭を使っている。

皆様方は、わかっているよね。
私たちのファインプレーあるよね。
ん、慰めあおう。たたえあおう。

でも、世間の評価は、あ・た・り・ま・え なのだろう

セルフコントロールの肝は、他人の評価を気にしてはいけないことであると 重々承知している。

でも、気持ちは、複雑。

なんせ、明日にでも、たった一つのエラーで、世間に叩かれまくって、自分の医師人生が終わりになるかもしれない。

そんな世の中になってしまったのがなんだか悲しい。

多くの善良な医師が今そんな気持ちになっていると思う。

これが当時の私の気持ちです。読み直してみると、今は当時よりもちょっぴり冷静な気もしますが、大筋は、今でも同じです。私のこの感情に影響しているものは、単に報道の問題だけでなく、社会自体がもつ、他者への「不寛容性」の問題もあることがわかります。

感情をさらすのは少し勇気が入りますが、あえてさらしてみました。

私の感情は、決して一般化しうるものではありませんが、医師の中に私と似たような感情を抱いている方も決して少なくないだろうと思っています。

感情には感情で帰ってくるのは、想定の範囲内ですが、一応皆様へのお願いです。

「いやなら辞めろ!」的な、人の心への配慮に欠く煽りてきなコメントはご遠慮願いたいと私は思っています。

(2)頑張りすぎ キーワードは過剰適応

頑張ることは一般に良いことと受け取られがちですが、頑張りすぎることはどうでしょうか?微妙ですよね。私はどちらかというと余りよろしくないのではと考える派です。だから、その線引きをどこでするのかという点が重要だと私は考えます。そのためには、冷静に自分自身や業界そのものを見つめる目線が必要です。そして、そのうえで、適切な適応(≒ブレーキ)を考えていかないといけません。ところが、その適切な適応のあり方を考えることなく、ひたすら頑張り続け、周りの要求に適応しようとする個人の行為や業界の姿勢も存在します。私は、それを過剰適応という表現で、警鐘を鳴らしておきたいと考えます。なぜならば、過剰適応の先には、疲弊と破綻という結果しかないと相当に高い確度で予測できるからです。基本的に人間の欲望には際限がありません。だから、その欲望に答えるべくひたすら適応することだけを考えていけば、必ず過剰適応の状態になってしまいます。ブレーキが必要という理屈はそこにあります。

医療業界が、過剰適応の結果、疲弊と破綻という末路と陥らないためには、「足るを知る(老子→禅、仏教へ)」の精神が普及し、生への欲望や死へ不満を過度に求めずに、現状の医療のままで満足し幸福感をもつことが、今の社会に求められている姿勢ではないでしょうか? 業界としては、できないことはできないと正直に主張する勇気と決断を持つことが、過剰適応を避けうる一つの方法だと思います。いずれも、難しいだろうとは思います。ですが、これが私の理想です。

(3)不信
私達、医療者も今、多くの不信感を抱いていると思います。一つは、厚労省に対する不信です。一つは、報道に対する不信です。そして、もう一つは、患者に対する不信です。厚労省に関しては、事故調査委員会の設立に関する思案のどたばた等にて、もはや医師からの信頼は地の底に落ちたといえるのではないでしょうか?報道は、社会の流れに応じ、報道内容を随時変化させていきます。そういう意味では、医療に対する報道は、かつてのバッシング一辺倒からは、変わってきたとは思います。それでもやはり、報道に対する不信は根強く残っていると思います。昨年より、モンスターペイシェントなどの言葉が報道にも登場するようになりました。実際に、現場で患者さんと接していても、常識はずれの態度や行動を示す患者さんに出会います。もちろん、そんな人は、極々少数派です。大多数の患者さんは、常識のある方です。ですが、患者さんと初めて会うことの多い救急外来という場の特性上、どうしても最初から患者さんを信用できずに、不信感を持ってしまうことはあります。

このように、医師側にもいろいろな不信が心の中にあります。それは、直接的、間接的に、対患者さんとの関係の中で、対地域との関係の中で、何らかの影響があるのだろうと思います。

不信は、また新たな不信を生み、相互関係をぎくしゃくしたものにします。だから、医師側が抱く不信は、自己の問題としてそれを受け入れ、視点や考え方を自らで変え、そして不信を解消させる自己努力は必要かと考えます。もちろん、それは、患者側にも同じくお願いしたい自己努力ではありますが・・・・。

(4)意欲喪失
どんな事情や理由であれ、多くの医師が現場を去ること。これが、医療崩壊問題の本質だといえると思います。現場を去るということは、意欲喪失という医師の心の中に宿る問題があります。その点を鑑みずに、強制配置して医師を確保すればいいなど発想では、現状の回復は望めないでしょう。だから、医師が意欲を喪失しないためにはどうしたらいいのか?そういう視点を一人ひとりに考えてほしいです。特に、政策立案にかかわる政治家の先生方には、医師の意欲維持・回復といった視点から、政策を考えてくださることを私は望みます。よろしくお願いしたします。念のために申し上げますが、業界自身で解決せねばならない点があることも心得ているつもりです。

以下、2,3,4に関しては、ごく簡単に触れるに留めます。

「2」:報道の問題について

(1)負の増幅効果 - ゼロリスク社会の増幅・相互不信の増幅・生への執着の増幅- 
(2)知ることの弊害
(3)誤解を誘う情報

メディアには、種々の増幅効果があります。いくつか私が思うところの負の増幅効果を上に書きましたが、主に「死」の報道についてここでは考えてみます。メディアには、死の報道に関してこんな背景があるようです。a??a?¨a?aa?1a? ̄a?≫a??a?!a??a?,-a2!a?¬-aμ[コピーライト]a,€/dp/4781906710" target="_blank">リスク心理学入門 岡本幸一著 サイエンス社 P125より引用。リスクに関するあるシンポジウムでの現役記者の発言です。

 これまで出てきた各種リスクについてどういうふうに報道されているかということを簡単にご説明します。まず原則としましては、報道においては人の命には軽重がありまして、日本人の命というのは外国人より必ず重いんです。それから、巻き込まれた一般人の命というのは、専門家の命、事故に関連する業務にかかわっていた人の命のより、はるかに重いです。それからこれは当たり前ですが、有名人の命は無名人より重いです。
 こういう原則みたいなものがありまして、まず自動車事故についてどういう報道のされ方をしているかといいますと、(中略)原則として
「死ねば出す」となっています。(中略) それから、子供が絡むと大きなニュースになりやすい。大人が死んでも、顔写真は、自動車事故の場合はめったに載らないのですが、子供が死んだら顔写真は必須となります。 (中略) 次に航空機事故について考えますと、これは被害者に日本人がいるかどうかが大きな分かれ目になります。(中略) 社会面ではなぜその飛行機に乗ったかとか、乗る前はどんな様子だったか、かなり情緒的に報道されます。

まあ、こんな感じだそうです。 なんだかなあと思います。こうして選択された死の報道が、メディアの増幅効果をとおして世間の死生観にどんな影響を及ぼしているのでしょうか?世間の死生観は、医療崩壊問題と直結すると考えている私としては、とても不安です。野の花診療所の徳永進先生が、ある著書の中で、「死の実況中継」をやればいいのにという提案をされているのを私は読んだことがあります。まったく私もそう思います。頻度の低い死を派手に報道するより、日常的な死を広く報道し、世間が「死」に対してオープンになれる世論が形成されることを私は希望します。生への執着を増幅させるのではなく、死への受容を増幅させてほしいと思っています。死を考えることは今の生を考えることなのです。決して、生と死は対立の関係ではないということを繰り返しここでも主張しておきます。

私は、ある知り合いの議員に、報道抑制の提案を行ったことがあります。知ることの弊害を懸念しているからです。よく知る権利ということばが聞かれますが、知らない権利だってあってもいいのではないかと思います。今のメディアは、リスクを過敏に報道しすぎると思うのです。知らなければ、平穏であるはずの生活が、知ってしまったがためにそれが崩されるということもあるのではないでしょうか?

誤解を誘う情報は、メディアに蔓延していると思います。私達は、メディアリテラシーを持つことが急務だと私は考えています。(参考エントリー:メディア・リテラシーと「死」の受容 )

「3」:法律の問題について

(1)訴訟(刑事・民事)
(2)法の「過失」と医療行為
(3)医師法21条
(4)労働基準法

4つほど、問題と思う項目を挙げましたが、ここでは各論について触れません。私が、政策立案者や法の関係者に述べたいことは、前エントリーで述べた悲嘆のプロセス12段階の存在を知り、そして考えほしいということです。

①精神的打撃と麻痺状態②否認③パニック④怒りと不当惑⑤敵意とうらみ⑥罪意識⑦空想形成・幻想⑧孤独感と抑うつ⑨精神的混乱と無関心⑩あきらめ-受容⑪新しい希望⑫立ち直り

死に遭遇したばかりの遺族は、こういう心理が働きます。勢いのあるご遺族は、その一時的な感情(特に④、⑤)にまかせて、法的な行動(刑事告訴など)を起こそうとします。それは、紛争の火の手が拡大してしまうことと直結します。だからこそ、遺族がまだこの感情のプロセスの中にあるときは、刑事捜査や民事訴訟を起こしたくても、まだ早急には起こすことが出来ない具体的な法体系があると良いと思いませんか?これは、ご遺族の訴訟の権利を奪うという主旨ではなく、医学的な感情の乱れにある時期にのみ、訴訟を起こすことができないという提案です。何でもかんでもすべての医療行為に対して免責を要求しているわけではありません。これが私の主張です。

片方に患者さんがいるんです。患者さんの家族がいるんです。

なぜ、警察もうごいてくれないんだ
どう考えても医者のミスじゃないのか
不明ですませるのか

という声が出てくるんです

これは、どなたのご発言だか、覚えていますか? 舛添厚生労働大臣のお言葉ですよ。(参考エントリー:診療関連死法案 舛添大臣の答弁) きっと大臣は悲嘆の心理プロセスをご存知ないのだろうなとこのご発言から私は推測します。

法の介入は、もっと後だっていいじゃないですか? 十分に悲しみの感情を発散させ、関係者のみで十分なコミュニケーションをとった後でいいじゃないですか?法が動き出すのは・・・・・。

ぜひ、こういう見方もあるということを私は議員の先生方にお伝えしたいです。

「4」:医療体制の問題について

(1)医師不足
(2)医療費抑制
(3)労働環境
(4)スピリチュアルケア

(1)(2)(3)は、随所で語りつくりされていることなので、もう、ここでは述べません。(4)の視点が私独自かもしれませんので、これについてのみ述べます。

私は、今の医療崩壊には、「心」の問題が大きいと主張してきました。ですので、最後に、医療体制から、「心」の問題を触れてみたいと思います。

スピリチュアルケアとは何ぞや?江原啓之をイメージされることが多いかもしれませんが、とりあえず関係ないと思っておいてください。スピリチュアル=霊的というイメージのみで解釈すると言葉の誤解を受けそうです。

誤解のないように、スピリチュアルケア入門 窪寺俊之 三輪書店 P13から引用しておきます。

スピリチュアリティをひとまず次のように定義しておきたいと思います。

「スピリチュアリティとは人生の危機に直面して生きる拠り所が揺れ動き、あるいは見失われてしまったとき、その危機的状況で生きる力や、希望を見つけ出そうとして、自分の外の大きなものに新たな拠り所を求める機能のことであり、また、危機の中で失われた生きる意味や目的を自己の内面に新たに見つけだそうとする機能のことである」

少し説明が必要です。人が思いがけない人生の危機(突然の病、死別など)に直面すると、激しい心の動揺を経験します。その状態から立ち直るために、人は自分の外にある絶対的存在や、人間的限界や有限性を持たない世界に、新たな「生きる力」や「希望」を求めたりします。また、自分にとって最も重要なものは何かという視点から、隠れていた真の自己と出会うことで危機を乗り越えて生きるための新たな「人生の意味」や「目的」をつかもうとします。このような心的機能がスピリチュアリティで、これは生得的ですが、危機に瀕したときに覚醒し、力を発揮します。

医療の中で、患者や家族のスピリチュアリティの覚醒が必要とされる場面が、「死」に他なりません。これまで、生命を延ばすことに、ただ一生懸命だった医学の発展の歴史からみれば、このスピリチュアリティを援助する(=スピリチュアルケア)視点が、実践医療の中において、システム的(保険点数など)としてはもちろんのこと、学問的にさえ、まだまだ立ち遅れているのではないでしょうか? 

医療崩壊の打開策として、医療者と患者の対立を緩和させうるシステムは不可避だと私は考えます。スピリチュアルケアの視点を医療システムの中に積極的に取り入れていく視点は、その一つの策だと思います。

以上が、人の「心」という視点を中心に据えて、考えるうちに私の脳裏に思い浮かんだ提案です。

結局、患者と医療者の対立が問題なわけですよね。医療崩壊の根底には。だからこそ、この両者の心のあり方を思索するのが、重要であると私は思うわけです。

最後にもう一度五輪旗を出して、まとめます。

図1.jpg

(まとめ)
昨今の医療崩壊を考えるにあたり、患者側の心と医師側の心の有り様を見つめることは重要である。いかにして、この両者の対立を無くしていくか。これが極めて重要な目標である。医療は、死と直面が避けられない業種であり、死生観のあり方や悲嘆の感情のプロセスの理解がまず必要である。また、患者側医師側の両者の相互不信感の解消や不寛容性の是正も必要である。この両者の関係の修飾因子として大きなものが二つある。報道の問題と法律の問題である。特に悲嘆の感情のプロセス初期においては、この二つの因子を早期介入させないことが、対立の拡大予防策として重要である。報道業界の自立性と何らかの法改正を望みたい。医療体制の中で未発達の分野は、スピリチュアルケアの分野である。この分野を発展させていくことは、医師と患者の相互理解ひいてはその対立の緩和という視点においても有用であると考える。両者の対立が緩和され、医療システムの問題が改善されれば、その帰結として、医師のモチベーション低下の問題は自動的に解決するであろう。


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コメント 7

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沼地

個人的には今のメディアは、リスクを過敏に報道しすぎるとは感じていません。
というより記事に偏りがありすぎて、リスクを過大に報道したり、また逆に報道しない部分も大きいと感じています。

知らなければ、平穏というのは私は好きではありません。
できるだけ「正確」にリスクを報道して欲しいと思います。
医療事故かどうかも判明しないうちから見出しに「医療ミスで死亡」みたいに書くことが問題なのは、それが「正しくない」からです。

たとえば後期高齢者医療制度は多くの人にとって大きなリスクだと思います。
実質的に国民皆保険制度の終了です。
それなのに施行されるまでほとんど報道されませんでした。
施行前の2月の朝日新聞には高齢者のために新しい医療保険が始まると紹介されており、これまでの保険から高齢者を切り離すこととは書かれていませんでしたし、保険料を年金から天引きすることも書いていませんでした。

この前、回収されたジェネリックのヘパリンについてもアメリカでの死者がかなり報告されているのに、マスコミはほとんど無視です。
餃子に毒がはいっていたらあれほど報道が過熱するのに、ヘパリンの不純物については報道されません。
それどころか厚生労働省は使用可と判断した様子。
これって透析用のヘパリンであり、透析の費用が包括だから先発品には変えられない?それとも先発品では供給が無理?
こういうのは混乱や不安を避けるために報道されないのでしょうか?

医療崩壊についても正確な報道が必要なのだろうと思っています。
今の政治のやりかたはインフォームドコンセントがなってないというか、インフォームされてないというか。
医療費削減が国民の意思とは思えません。
削減しないと税金上げるよ~との脅しが効いてるだけ。

明日はどっちだ?


by 沼地 (2008-05-08 10:52) 

僻地外科医

>これって透析用のヘパリンであり、透析の費用が包括だから先発品には変えられない?それとも先発品では供給が無理?

 無理です。というか、先発品も大元の生産は中国です。ヘパリンは豚の小腸から生産されますが、世界最大の豚の生産地は中国で、かつ人件費が安いという特徴があり、世界中のヘパリンの5割以上が中国製です。回収されたのも別にジェネリックだけではなく、先発品も回収されています。

 この回収という対応も基本的には間違いだと思います。起きたのはアレルギーなのですから、アレルギーに即時対応出来るよう医療機関に通告するしか方法はありませんでした。なぜならヘパリンが無ければ透析は出来ず、透析が出来なければ透析患者さんは死んでしまうからです。結局、後日の対応として「医師の責任の範囲で」使用してもいい・・・としたのが、厚労省の対応で、単に現場に丸投げしただけに終わっています。
by 僻地外科医 (2008-05-08 11:15) 

沼地

それは知りませんでした。
この前、自主回収された分だけじゃなかったんですね。
そうするとどこのヘパリンでもアナフィラキシーの危険が高くなっているのならば、それをあまり報道しないのはなぜでしょう?
使わないわけにはいかないから、不安を避けるため?
そしてアナフィラキシーショックが起きたら、「医師の責任の範囲で」使用したのだから医師の責任?
ちょっとそれはかなりの「地雷」ですね。

by 沼地 (2008-05-08 12:00) 

doctor-d

五輪旗をモチーフとされ、非常にまとまりあるお話ありがとうございました。
特に2つの輪に題されている「心」の問題点に、日常に医療に携わりながら常にかんがえさせられています。

私が思うに、現代の日本社会のように経済的に成熟した暁には、物質的な欲求の追及、あるいは精神的なものでも簡便に手に入る部分つまり快楽に繋がる事のみに追従してしまい、精神的には退化してしまった結果が「心の問題(患者側)」には顕著に表われてきたのではないでしょうか。

精神性を取り戻すにはどうすればいいのでしょうか・・・。
by doctor-d (2008-05-08 12:04) 

雪だるま

徳永進先生、「死の中の笑み」「死ぬのはこわい?」を読みました。
後者はこどもに読むように借りた本でした。
死の実況中継、ナイスアイデアと思います。

>医学的な感情の乱れにある時期にのみ、訴訟を起こすことができないという提案です。

これはすばらしいです。時期の設定がたいへん難しそうですが、
必要なことだと思います。それができないなら、いっそ診療関連死は
罪に問われない法律があって欲しいです。

衝撃を受けたときは、本当に、目がくらみます。
微にいり細にわたって疑念を持ちました。
かっこいいことをつい書いてしまう自分ですが、もし当時、
医療訴訟が今のように敷居が高くなければ、
訴訟に走った可能性は非常に高かったと確信します。

by 雪だるま (2008-05-09 14:32) 

ハッスル

そういえば”リング”も無意識の連鎖でしたね。

最近、家族と話すことに情緒的になってきた、と自分で感じています。
特に安易に結果(結論)を知りたがる方、一方的に自分の意見を述べられる方に対して。
そして、救急室で初めて出会った家族にまず不信を感じるようになっています。もう少し若い時は、まっすぐに医療と向き合えた気がして、また辟易とします。
そして医療従事者(特に医師)に対する不信。都合のいいように専門を謳う(逃げる)方。

養老孟司さんではありませんが、”わかりあえない感じ”で過ごすのはきつい今日この頃です。
大野病院、大淀病院などの負の影響は最後まで抱えていかないといけないのでしょうか・・・
by ハッスル (2008-05-09 22:37) 

なんちゃって救急医

>沼地 様

結局は、リスクコミュニケーションをどうすべきかの問題につながるのだと思います。

>僻地外科医先生

ヘパリン問題も、リスクの考え方次第で、いかようにも受け取ることができそうですね。

>doctor-d先生

たしかに、たしかに、老子の言葉でもそれに近いのを見たような気が・・・・

>雪だるま様

もし当時、
医療訴訟が今のように敷居が高くなければ、
訴訟に走った可能性は非常に高かったと確信します。

どきっとさせられたお言葉でした。

「死ぬのはこわい」は、私持ってますよ。

印象ぶかい一説 P46
白と黒の一つずれているシマウマが皆からいじめられていた。孤立して泣いていると、一匹の鳥がやってきて「とても素敵だよ。エレガントだよ」とほめてくれた。そのことに助けられて、逆さまの縞のシマウマは元気になったというお話。これには、先ず笑って、その後考えちゃった。差別も結局そんなもんだし、いろんなことに白黒で分けてしまっているけれど、どうってことではないんじゃないの、と思った。どうってことではないのを、白・黒で分けたがり過ぎてない、って思ったな。男と女だって、子どもと大人だって、若者と老人だって、健康人と病人だって。それに、生と死、生きることと死ぬことだってね。


この一説、なんとまあ、荘子の死生観と一緒だなあとしみじみと思った次第です。


>ハッスル先生

先生がご指摘する医療者へ不信。わかります、それ。私も現場で悲しくなることがあります。



by なんちゃって救急医 (2008-05-10 13:00) 

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