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高齢化社会と死生観についての私見 [雑感]

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救急の現場で仕事をしていて、体感することは、高齢者の救急患者が増えたなあということである。心肺停止患者にいたっては、殆どが高齢者である。

これからどうなるのであろうか? 厚生労働白書(平成19年)によると年間死亡者数は、今後下図のように推移していくということらしい。75歳以上の死亡者の絶対数(緑色の部分)が直線的に激増していくであろうことが、視覚的に飛び込んでくる資料である。
図1.jpg

なるほど・・・。このグラフ中央の縦線より左は2005年以前の実数値であるから、自分の体感を裏付ける資料となる。
そして、これからは・・・・

すでに救急医療崩壊が懸念されている昨今ではあるが、この資料を前にすると、高齢者の救急医療供給体制の未来は暗いといわざるを得ない。

なにか手はあるのか?

そう、ひとつあるとすれば、一般に「生」を「善」とし「死」を「悪」とするという死生観の社会的変容だ。 参考エントリー:生と死は対立ではない

これは、政府という公の立場としては、なかなか言えないことかもしれない。

しかし、医療者の多くは、心のどこかで強く感じていることではないだろうか? そう思いながら、新聞記事を検索してみた。すると、いくつもの著作をお持ちの救急医、浜辺先生が、興味深いことをおっしゃている記事を発見したので、紹介する。

(耕論)救急医療を救うには 島崎修次さん 浜辺祐一さん 佐藤敏信さん
2008.03.02 朝日新聞 東京朝刊 より一部抜粋

「死の迎え方」考えよう 都立墨東病院・救命救急センター部長 浜辺祐一さん

墨東病院は、重篤患者を治療する「救命救急センター」と軽症まで幅広く診る「ER(診察室)」を備えているが、近年、いくつもの病院に受け入れを断られた末、運び込まれる救急患者が目立つ。東京や大阪などの都市部では、重症に対応する2次救急病院が以前ほど患者を受け入れなくなったためだ。2次といっても、大半は夜間や休日、宿直医が1~2人で急患に対応、手術に必要な麻酔医もいないのが実情。「レントゲンを撮れない」「訴訟リスクがあり専門外は無理」と、救急に消極的になっている。その結果、救命センターがいっぱいになり、本当に重篤な患者を断らざるを得なくなっている。負の連鎖だ。救命センターの負担が増えた原因は、ほかにもある。高齢化社会になり、療養病床の減少、在宅医療の促進で、自宅や老人ホームなどの施設から搬送される高齢者も増えた。
本来、突発の患者に備える救命センターで収容するのは疑問に思う例もある。救命センターの現場にいる者として、国民一人ひとりに考えてほしいのは「死の迎え方」だ。墨東病院に搬送される心肺停止患者は年間約600人。そのうち9割以上が高齢者で、末期がんや高齢者施設で意識が混濁した「大往生」と呼ぶべき患者も多い。東京では、心肺停止患者に対して救急車を呼べば救命センターに運ばれ、心臓マッサージ、人工呼吸、薬剤投与などの蘇生処置へと突き進む。家族は「親が倒れたのに、病院にも連れて行かなかった」という状況を受容できない。高齢者施設も「満足な医療を受けさせない」と評判が立てば死活問題になる。人手の少ない2次救急病院も「処置不能」と断る。だれもが死に責任を持てないために、救命センターで体をチューブだらけにして高額の医療費をかけ、どう見ても生き返らない患者の蘇生に努力する。医療技術や機器の進歩で延命は可能になったが、こうした高齢者は生き残ったとしても意識が戻るわけでなく、大半が医療が不可欠な状態のままとなる。家族から「こんなことを頼んでいない」となじられることもある。そうした患者の転院を受け入れる医療機関は少なく、行き場のない患者が救命センターのベッドを埋めてしまう。その結果、救えたはずの患者を断らざるを得ない事態に陥っている。大げさに言えば、いつか入院中の患者を除けば日本人はみな救命センターで死ぬのではないか。膨大な救急のスタッフと医療費が必要となるが、現実的ではない。一般の病院でみとられる選択や自宅で静かに最期を迎える死もあり得るだろう。患者や家族、医療者の間に健全な死生観が醸成されてほしいと願う。

本来、自然の姿である高齢者の「死」が、救命救急医療という非自然の環境の中で、「不自然な死」として、多くの高齢者が死んでいく現状を浜辺先生は憂っておられるようである。 そういう現状を作ってしまう今の国民の死生観を、非健全な死生観とお感じになっているのだろなと私はこの記事を読んで思った。 個人の価値観によるところが大きい死生観を、健全 VS 不健全 と対立構造においてしまうのは、一部の人からは反発を生みかねない表現かもしれないなと私は思うが・・・・。

私は、今、荘子に関するするいろんな本を読みあさっている。世間の中のあらゆる対立概念を超越し、同じと考える(万物斉同)思想にたつ荘子は、人間の生と死さえも、そう考える。 そんな荘子の思想が、閉塞した今の医療には必要になるのではないかと私は考えている。

荘子に関して最近出た本:荘子の心 P181から引用する。

私たちがこれからしなければならないのは何であろうか?自分の心の中の生と死の闘いを正しく観察しよう。そこに生きていく望みがみえたら、私たちは生きていくことを楽しむことができるし、時代の流れに順応することもできる。現実の中で楽しく生き、一分、一秒ごとに楽しく生きていくことができる。そうして、本当に死に直面する時には、微笑んで平然とそれを迎えることが出きる。そうすれば、臨終に際し、「私は今生において思い残すことはない」と言えるだろう。これはすべての人間が到達できる境地であり、現代の荘子解釈の一つでもある。

今の私たちは、メディア報道の偏向性のために、「死」がセンセーショナルに報じられるという社会の中に暮らしている。例えば、殺人、事故死の報道だ。これらの死は、その頻度はとても低いも関わらず、日常の静かな頻度の多い「死」を、報道の仕方、報道の量などいずれにおいても、圧倒している。その結果、「死」を不安に思い、「死」は避けるべきものといった考えが、多くの国民に浸透してしまう。そうした社会風潮は、間接的に医療の生死の現場で、新たな対立を生み出しているのだろうと私は考えている。

最近、私の周りの方の何人かに紹介した荘子の言葉で、本日のエントリーを締めたいと思います。

荘子 大宗師篇

善夭善老、善始善終
わかきをよしとしおいをよしとし、はじめをよしとしおわりをよしとす。

訳:若さを善しとし、老いを善しとし、生まれたことを善しとし、死ぬことを善しとする。
(荘子 第一冊 金谷治 訳注 P185)

今を善しとして今を生きることが、いつかは必ず迎える「死」を受容できることにつながるのではないでしょうか?


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コメント 6

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ここりん

この記事読みました。心に残っているので覚えています。

家族って、いろんなしがらみがあって、何で死にそうなのに病院に連れてかないんだ!!と親戚から言われたり。(介護、看病に直接携わってない人たち)
こんなこというのは、なんですが、ご高齢で、救急で救命されたばかりに、ひどい認知症になって、周囲をひどく困らせている人などにかかわると、内心助かってほしくなかった・・と思ってしまいます。ごめんなさい。

まだ全部読んでませんが、本届きました。面白いです。
by ここりん (2008-07-03 20:21) 

偽精神科医

多少、話の方向性は変わるのですが、先日山形県にある精神科救急病院の見学に行ってきました。山形は4人に1人が高齢者で、高齢化が日本平均の10年先を走っているそうです。都会の精神科救急病棟は、統合失調症の急性期やら気分障害、人格障害などがほとんどを占めているのですが、その病院では入院患者の半数近くが認知症によるせん妄や妄想でした。

これからの精神科医の仕事は、統合失調症ではなく認知症が中心になっていくんだなと痛感した次第であります。
by 偽精神科医 (2008-07-03 23:49) 

沼地

死生観のありようも大事だとは思いますが、個人的には制度をどうにかして欲しいなって思ってます。
国は福祉的な受け皿を準備せずに老人の長期入院を出来なくして、在宅介護、在宅お看取りを進めようとしているようですが、それが無茶な気がします。
在宅ケアも充分ではないし、そもそも医師が病院で100人の老人を回診するのと在宅の100人を往診するのとを比べても、今の医師不足の状態ではやれっこないなあって思いますし。
そして医師の診察無しに亡くなれば、どんなご高齢でも長患いの果てでも「変死」なわけでしょう?
やはり最後は息のあるうちに救急病院に運ぶことになるかと。
それで救命できたら後方に老人用のベッドは無いわけで、救急医療は破綻するでしょうが。
システム自体を改善し、福祉的な施設を増やし、そこの施設と契約してる医師がお看取りみたいなパターンがいいかなみたいに思ってます。
そろそろ危ないってときに家族と過ごせて、医師が立ち会ってご臨終ですってスタイルには個室が必要になりますが。
医療も福祉も切り捨てる気満々みたいだから無理かな?

by 沼地 (2008-07-03 23:54) 

ハッスル

こん○○は

ご指摘の件、常々染み入ります。
いい事かどうか別として、日常的に”初対面の患者さんの死”と”それに遭遇した関係者”と接していると、正直なところ疲れきります。

”社会的入院”を”罪悪”として、今の制度はちょこちょこ変化しているのだと思いますが、最近”社会的入院”のいい側面を実感します。
”社会的入院”を排除するために、ソーシャルワーカーをはじめ、繰り返し相談し、八方手を尽くし、たくさんの書類を作成し、半ば強引に自宅や施設に戻っていただいたりして、患者さんにも関係者にも金銭的・肉体的・心理的負担を強い、最期は救急という形で負担を強いることになっていることも日常茶飯事です。
昔、十人単位の大部屋に高齢者がおられるのを違和感を感じましたが、実はそのことで難しいことに触れずにうまくまわっていたのかなあと考え直している今日この頃です。はじめから病院を出なければ救急車に乗ることもないでしょうし。

理想形の看取りにこだわらずに、身の丈相応でいいのに・・・
”天国へのビザ”ですね(ことり先生すいません)

そういえば、”最期は自宅で死にたい”と思っている人もかなり少ない、という記事もありましたね。

駄文で失礼しました。
by ハッスル (2008-07-04 18:47) 

なんちゃって救急医

>ここりん 様

そのお気持ち、私もわかるような気がします。本を読んでくださりありがとうございます。


>偽精神科医 様

認知症中心の医療ですか・・・・
死ねなくなった日本社会ゆえの新たな側面なのかもしれませんね。まあ、良いことといえばそうなのかもしれません。精神科医もたくさん必要になるのではないでしょうか


>沼地 様

確かに、制度も重要ですよね。制度が存在しなかった頃においても、人は、その時の状況で「死」と向き合ってきたということは言うまでもありません。その長い歴史の中で、いろいろな思想がでてきたわけで・・・。

>ハッスル 様

最後は救急・・・。う~ん、わかります。わかります。 病院とは切り分けて、死を迎えるための新たな社会施設と公的資格をもった専門家が必要な時代に突入してしまっているのかもしれませんね。

by なんちゃって救急医 (2008-07-06 06:30) 

空まめ

死を考える。これからとても必要なことと思います。
生きている人間はみんな死を迎える。そんな当たり前のことに、生も死も病院という門を通らねばならない。そこがおかしいとも思うんです。
 三途の川も金次第。残された、年老いた婦人が夫の看病をし、病院代をも負担する。その逆もしかり。医療を施す人たちの生活もありきれいごとでは済まされません。けれど、まともに年老いて蓄えも減っている人たちがそれを当たり前とできる人たちばかりではないと思うんです。
 死がみんなに当たり前のことだということを知る現実を考えて欲しい。
 年金欲しさに親の死を隠す人、また儀式がめんどうで逃げる人。
 私は近い将来、死者鑑定の部署なるものが役所に設置され、ボランティアのように正常な死か、異常死かと鑑定されそこから専門機関が動くような場所ができれば良いと思う。
by 空まめ (2010-08-09 13:20) 

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