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「何もしない」という選択肢 [雑感]

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10月の半ば、季節は秋真っ只中である。 そんな季節に、毎年日本救急医学会総会は開かれる。 今年は、札幌で開催された。私も参加した。今回は特に、高齢者救急のセッションを興味深く拝聴させていただいた。

命の最後の砦ともいえる救命センターで働かれている先生方の「とまどい」や「困惑」を、私はそこに感じた・・・・。

運ばれてきたはいいが、このご高齢の患者さんに救命救急医療の適応が果たしてあるのか?

という「とまどい」や「困惑」である。

皆さん、もちろんストレートには言わない。 「連携」「システムの再考」などといういわゆる当たり障りのない無難なマジックワードが頻繁にスライドや口演に出現する。私は、そのマジックワードの裏に、そういった「とまどい」や「困惑」を読み取ったのだ。

人はいつかは死ぬ。もちろん、それに年齢に関係はない。ただ、高齢者であれば、死の確率が高いということだけだ。だから、年齢という要因のみで、高齢者医療を一律に切り捨てるべしと主張しているわけではないので、そういった視点の批判・反論は避けていただきたい。

確かに、救命救急の先生は、現場で頻繁に起こりうるそういった生と死に関する倫理的な側面をプロとして日ごろから考えておくのは重要だ。だから、学会でこういったセッションがあり、救命医がそこでディスカッションすること事態は意義あることだと思う。

しかしである。

彼らがそれを一番に考えるべきだろうか? 私はちがうと思う。 

それをもっとも考えるべきは、救命医ではなく全国民ひとりひとりではないのか?

残念ながら、マスコミは、そういったことは積極的には言ってくれない。それも仕方がない側面はあろう。彼らにしてもいろいろしがらみはあろうから。

私は、医療崩壊が騒がれる現代の医療において、軽視されているかあるいは忘れ去られている選択肢がひとつあると思っている。

それは、

「何もしない」

ということである。

私が最も尊敬する先生の一人である関西医大心療内科の中井教授がずいぶん前に朝日新聞にお書きになった記事を紹介する。

「人生の秋」 中井吉英(臨床医の目) 【大阪】
1995.08.02 大阪夕刊 3頁 3総 写図有 (全1,016字)

四季にたとえれば、中年期は秋に当たる。私は秋が好きだ。人生に秋がなければ、どれだけ味気ないだろう。夏から、いきなり、あの厳しい冬に移り変わるとしたら。残念なことに、素晴らしい人生の秋を体験しなかったと思われる人に出会うことがある。特に男性の場合、社会の最前線で活躍し、四十歳からの厄年を何事もなく通り過ぎてきた人たちが多い。六十五歳になるAさんもその一人だった。常に第一線を歩み続けてきたジャーナリストで、前だけを見て生きてきた行動的な人である。そんなAさんが、定年後、胸の痛みに繰り返し襲われるようになった。心電図に異常はなかったが、入院してもらい、血管造影検査をした。その結果、心臓の筋肉に栄養を送っている冠動脈の攣縮(れんしゅく)が痛みの原因だと分かった。冠動脈を拡張させ、血液の流れをよくするニトロール舌下錠を飲んでもらったが、目ぼしい効果はなかった。胸痛は、不安に伴う急激な自律神経失調のため冠動脈にも異常が現れる「パニック(恐慌)障害」だったのだ。診察すると、肉体は五十歳代半ばの若さである。なのに、胸の痛みの背後に潜んでいる「老い」と「死」に対する不安に抗し切れずにいるに違いない。本人は、そのような内面の急激な変化にまだ気付いておらず、体だけが不安を先取りして訴えている。定年退職するまで夏を生きてきたAさんは、秋を体験しないまま冬に直面していた。中年期を経ずに、突然、青年期から老年期に迷い込んでしまった。
彼は「何かをする」ことに人生の価値を置いてきた人。仕事が人生のすべてだった。だから定年後、「何もしないこと」にどうしても意味を見いだすことができなかったのだろう。Aさんに限らず、私たちはたいてい「何かをすること」にこだわって生きている。中年期は「何もしない」ことの意味を学び、その知恵を生活の中に見いだす大切な時期である。厄年での病気や挫折は、人生のターニングポイントなのだ。「何もしない」ことの中に喜びや楽しみを見いだせた時、私たちは豊かな老年期を迎えることができる。私は彼に「毎日の生活の中での喜びと楽しみを一つだけ発見してくるように」と宿題を出した。何もせず、「あること」の意味を問うたのである。「何もしない」人の中には、千数百年後の今でも、私たちに深く影響を及ぼし続けている人がいる。ボディ・ダーマ(達磨=だるま=大師)である。面壁八年。彼はただ黙々として座り続けただけだった。(関西医科大学教授心療内科)

一人の人生の生き方を、四季にたとえる先生の考えが私は大好きだ。それでいくとまさに私は秋真っ只中ということになる。これから自分にもやってくるだろう冬に向かって、自分自身の「何もしないこと」の意味を、個人的にはゆっくりと考えていこうと思っている。

さて、今度は、この四季の考えを「個人」から「社会」に拡張してみてはどうだろうか?

そうすると、まさに日本社会全体が、これから「夏・秋」主体社会から、「冬」主体社会に今後確実に変わっていくことになる。

ならば、社会のインフラである「医療」においても「何もしない」という意味を社会として少しは考えてみてもよいのではないかと思う。現状では、あまりに考えなさ杉でないでしょうか?

一般的に言えば、救命センターの先生方は、医療において「何もしない」という選択肢の最も対極に位置する先生方である。

だから、年々搬送依頼が増加している高齢者の救急医療に「とまどい」が発するのも無理もなかろうと思う。

「何もしない」なんてとんでもないとお感じなる方もいるであろう。もちろん、ここでの「何もしない」という表現自体は、あくまで私の意図的な誇張表現である。だから、その文面そのままに受け取らずに、積極医療(集中治療、移植をはじめとする高度先進医療など)を控えるという意味から、本当に何もしないまで、すごく幅のある意味だと受け取ってほしい。

「何もしないこと」をな~るほどと感じてみたいなあと思われる方には、中国の老子・荘子の思想に触れてみることを私はお奨めする。何もしないということは、「死」をどう考えるかということにストレートに結びつくからである。 参考エントリー:生と死は対立ではない


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コメント 15

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ビビりの研修医

僕は、漠然と自分の死をイメージしています。
僕がもし、幸運にも、自分の死期において、意思を決定できるのであれば。
「さあ、早くCV入れてよ。CV。なに?適応がない?構うこたないって。僕が今までやってきたことの贖罪なんだから。開始輸液でも、維持液でも何でも構わないし、場所も、首でも肩でも大腿でもいいから。ところで主治医は先生?先生は何年目?え?10年目。ちょっと経験積みすぎだなぁ。先生の下、っていうのでもいいから、一年目の研修医の先生、つけてあげてよ。ルートキープでもエコーでもなんでもいいから、僕の体、フルに使ってよ。僕の体で身体所見、学んでくれたら最高だから…。何?家族が文句言う?心配ないって。僕も絶対言わない覚悟を決めてきたし、言わせないように徹底的に教育してきたから。遠慮することはないよ!・・・etc」
こんな死に方ができたら、かっこいいでしょうね。
しかし、ぼくはこんな死にざまを、本気で、真剣に考えています。
by ビビりの研修医 (2008-10-17 00:39) 

takapu48

以前携帯からアクセスしたものです。何のHNで入ったか失念しました。すいません。

「何もしない」

選択肢の一つだと思います。

ただ、前提として我々人間が「何もしない」ことが出来るか?という疑問を持ちます。
私たちの文明は良いか悪いかは別にして、「何かする」ことの上に成り立ってきたと思っています。それは、「何もしない」ことも含めてです。私は自分が「何もしない」ことも含めて「何かやってきた」と思います。

文章わかりにくいですね・・・つまり人間って「何かやって」生きている生き物だと思うんです。それからは逃れることは不可能に近いと思っています。


私自身、人生で意味ないこと無駄なこといっぱいやってきてる。
医療も結構そんなことあるのではないでしょうか。ケースにもよるでしょうが、風邪ひいてる人にコッテリ抗菌剤処方して市中に耐性菌蔓延させちゃったり(医師のせいだけじゃありませんよ。これも後知恵バイアスです。患者である私にも責任はあると思います)・・・


でもそういう無駄な「何かする」が良かった(この良かったも一刹那のものです。永遠ではない。第一、後知恵でその行為自身否定されることだってありうる)こともあったのではと思います。


・・・こう書いていると、改めて相対的価値観とその言葉に囚われている自分に気づいたりします。
by takapu48 (2008-10-17 02:00) 

tobby

いつも勉強させていただいています。

私は、血液内科、膠原病内科、HIV診療、救急部、そして現在呼吸器内科と渡り歩いております。
救急医療から終末期医療までの経験の中、「何もしない」ことを選択された方にもたくさん遭遇いたしました。最初から決めておられたような方から、何度も話し合っていく中で決断される方まで、プロセスは本当に様々でした。
初めから「何もしない」ことを決めていたような方に接した場合、こちらの方が戸惑うことが多かったように思います。「なぜそう思えるのか?」についてお話して頂き、人生についてたくさん勉強させてもらいました。

私が「結果的に何も出来なかったこと」に対し、ご家族から強い苦情を受けたこともあります。私はその後何ヶ月もかけてご家族と面談を繰り返しました。事実関係と、結果について申し訳なく思うことを何度も何度もお伝えしたところ、最後には逆に私の方がご家族から励まされていました。とても感動的な経験で、現在でも私の生きる原動力になっています。

「何もしない」を受け入れることが出来るためには、「あきらめ」、もしくは代わりとなる「何か」が必要かもしれないと、今は思っています。自分の接する範囲の人々には、できれば「あきらめ」以外の何かを得て欲しいと思っています。
by tobby (2008-10-17 07:07) 

ポン助

『何もしない』ことを医者に選択させるような場面があるのは酷な話ではないかなと思います
医者は目の前に来られて患者を救うことに一生懸命ですから。

その意味でなんちゃって救急医先生が指摘されているように、国民が死についてよくよく考え、どのような死に方や生き方を希望するのかを決定してから、医療機関へ受診をお願いしたい

何もしないことをご希望なら 医療機関にはお越しいただかなくてもいいのかなと思います

ただし 安らかに死ぬために、痛み、苦しみを取り除く施設の充実を切に希望します 私も最後はそこに入りたい かなりの費用負担をしなければならないと思いますが、それは普段から各自が自己責任でためておくしかないでしょう

自分の体を使って、後進のために使って欲しいという気持ちは勿論あるのですが、痛い、苦しいが苦手でして(とほほ 情け無いのですが)
by ポン助 (2008-10-17 12:36) 

doctor-d

「なにもしない」は、文字通りno reactionではなく、「なにもしない事を選択する」という意思決定、及び行動であるという事。そして、その意思決定の為に必要な考察、検討をあらかじめしておく事、それが「秋」を過ごすという事かと。

by doctor-d (2008-10-17 17:10) 

麻酔科医

中年以後  曽野 綾子   をおすすめします。

何もしない、、、高齢者の前立腺がんの一部に、何もしないという選択肢があると思います。経済的うんぬんよりも、QOLの保たれる時間を最大限にするという意味でも、寿命に任せる、という選択がありうるだろうと思うのです。BJにも、本間先生を緊急開頭手術で救命できないお話がありますよね。
by 麻酔科医 (2008-10-17 18:37) 

イチ非医療関係者

はじめまして。いつも興味深く拝見しております。イチ非医療関係者です。
医療事件の記事を読んでいると、いつも日本人の死生観の未熟さ(というのか)を感じます。
医療訴訟の危険の多い昨今、医師に「何もしない」ことを選択させるのは酷です。おっしゃるように、一人一人が考えていかなければいけないと思います。とはいうものの日本には基本的に宗教が根付いているわけでもなく、死に触れる機会も減り、「死」はまるで他人事のようで。医療関係者も非医療関係者も老人も若人も男も女もみな同様に「死」は身近に存在するものなのに。
私は度重なる病気のために生や死と向き合わざるを得ませんでしたが、それが無ければ今このブログも読んでいないでしょう。
本人や家族などが病気になったりしない限り、なかなか死生観について考えるきっかけがないというのはまずいなと思います。
小学校高学年から中学生くらいの義務教育期間中に、死生観を含めた医療教育をしていけばいいのに…と思います。
by イチ非医療関係者 (2008-10-17 18:42) 

イチ非医療者

補足です。最後の、

>死生観を含めた医療教育を~
 
これは、
死について考えることを含めた医療教育を~

という意味です。
死生観というとどうしても宗教が絡む意味合いになりそうなので言い換えます。すみません。
by イチ非医療者 (2008-10-17 18:50) 

石部金吉

私もかつて救急をしていたことがあります。

超高齢者の来院時CPAや自殺企図、覚醒剤中毒などといった患者さんがメインであったため、「この人たちに必死に治療をすることに、何か社会的な意味があるのだろうか?」という根源的な問題に、常時、悩まされていました。真面目な救急医ほど、モチベーションを長く維持するのは難しいだろうな、と思います。

また、「何もしない」ということに関して言えば、脳死状態の患者さんに対して医療を続けるのは本当に虚しいと今でも感じています。結局、延命措置をしているのは、我々や御家族を含む周囲の人たちのエゴであり、決して本人のためではないからです。

私自身が脳死になった場合には、速やかにレスピレーターをとめて頂きたいし、法的な問題をクリアできるのであれば、脳死になった自分の家族に対してもそのようにできれば、と思います。

ただ、一般市民で「死」というものを身近に感じている人はごく少数であり、「あらかじめよく考えておくようにしましょうね」といっても、殆どの方は考えないままだと思います。瀕死の患者さんを目の前にした御家族に対し、たった5分ほどで「本当は何もしないことがベストの選択なのですよ」ということを得心してもらう、そんな話術こそが必要なのかもしれません。


by 石部金吉 (2008-10-17 19:29) 

もにょ

いつも勉強させて頂いております。
「何もしない」=悪い事
という雰囲気がなくなれば、もう少し道が開けそうですよね。
何かせずに居られない方というのは、何もしない事自体が嫌というよりも、その選択をする後ろめたさに耐えられないのかなあと思う事があります。
長所は短所、日本人の勤勉さがマイナスに出てしまっているんでしょうか。自分が怠け者なのでそう感じるのかもしれませんが。
by もにょ (2008-10-18 10:14) 

GYNE

僕は夏を闘う立場ですが、いい秋を迎えている方をみると、ほっとしますし、そうなれるといいなと思います。
80歳を超えた進行がんの患者様のご家族が、「病気が完全に治るまで退院させないでください」などと目をつりあげて迫ってくると、溝の深さを感じます。最近は割り切って事務的に対応することも多いです。ルールに従っていただく。時間外、必要以上には一切対応しないなど。
by GYNE (2008-10-19 00:13) 

なんちゃって救急医

> ビビりの研修医 先生

すばらしい心の持ち主ですね・・・。

> takapu48様

『自分が「何もしない」ことも含めて「何かやってきた」と思います。』


なるほど・・・・ 同意です。

『改めて相対的価値観とその言葉に囚われている自分に気づいたりします。 』


この気づききわめて意味あるものだと思います。私は荘子に触れて気がつかされました。

>tobby 先生

『人生についてたくさん勉強させてもらいました。』


うらやましいですね・・・。

『最後には逆に私の方がご家族から励まされていました。とても感動的な経験で、現在でも私の生きる原動力になっています。』

すばらしい・・・、先生のお人柄がうかがわれます。

> ポン助先生

『安らかに死ぬために、痛み、苦しみを取り除く施設の充実』

ここ重要ですよね。身体的のみならず精神的にも。
よりトータルなスピリチュアルケアの充実が必要です。
若手医師の強制配置論を大々的に新聞にかくよりも、はるかに重要であると私は考えています。


>doctor-d 先生

そうそう、秋の過ごし方、秋のうちに考えること・・・
それなんですよ、それ。

>麻酔科先生

ありがとうございます。読んでみます。

>イチ非医療関係者様

『小学校高学年から中学生くらいの義務教育期間中に、死生観を含めた医療教育をしていけばいいのに…と思います。 』

同感です。残念ながら、メディアが彼らの世代の心に及ぼす影響を考えれば、悲観的な未来図しか見えないというのが正直なところです。

>石部金吉 先生

なかなか難しそうな話術ですね。あれば私も教えてほしい。

>GYNE 先生

つりあげる目の裏にあるそのご家族の不安にまで、マネージする心の余裕が医療者側にあれば、また違った展開になるかもしれません。まあ、わかりませんが。

by なんちゃって救急医 (2008-10-19 09:34) 

まりあ

「何もしない」を選択した一人です。
家族で話し合って、「何もしない」を医師に告げました。
医師はイノバンを10γから20γに増やしました。
私は増やさないでください。腎機能がほとんど無い時に、身体に水が溜まるだけで、死んだときに苦しそうです。と言いました。医師は10γに落としました。その1時間後、父の死は訪れました。最後に私の手を取るためにかすかに手を動かして。
死んだ父を病院から送り出すとき、医師は最敬礼しました。
私は最敬礼するのは、患者家族の方だと思って、最敬礼を返しました。あの先生が、まだ地域の中核病院で活躍されていることを祈るばかりです。


by まりあ (2008-10-21 06:59) 

竹

人生で何かをすることに一生懸命な時期は必要だと思います。
しかし、いつまでもそれを続けることはできません。秋がきて紅葉し、冬になるように、人生にも秋が訪れます。

人生の秋は冬への身繕いの時期だと思います。次第におとろえていく肉体と向き合い、身の丈に合った生活をしていけば、これまで気づかずに過ごしていた光景も見えてきます。

食事も暮らしも身の丈に合ったものにしていけば、「何もしない」ことが実は「何かが見える」ということに思えてきます。競争社会の会社を辞し、故郷に帰り、病院という全くこれまでと異なる場所で働いています。
発見というか「何かが見える」ような毎日です。

by 竹 (2008-10-21 09:47) 

内科です

内科医なんですけど、この前行きがかり上 救急医学会に
参加しました。
救急の先生たちと飲み会にいったのですが
文化の違いを感じました。

超急性期しか見てない人たちと
患者さんの家族や慢性期に触れる機会の多い人間との
違いかもしれないけど。

「何もしない」という選択を考えるのはもちろん大事です。
だけどその場にいる救急(ER~ICU)の人は がんがんやるか
切り捨てるか 極端な感じがしました。
ベースに何かある人(寝たきりとか障害者とか)だと 
露骨に嫌がったりとか・・・
何も心筋梗塞とか
脳卒中をどうにかしてくれとかいってるわけではなく

重症熱傷とか
穿孔した虫垂炎とか
気胸とか

それくらい文句言わずに見てほしい・・・(私の周辺の話ですよ)
と思いました。
by 内科です (2008-10-30 11:23) 

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