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2011 たらい回し報道再び [医療記事]

最近は、ツイッターで気ままに好き勝手なことをつぶやく毎日ではありますが、どうもここ最近になって、「たらい回し」という言葉がメディア側から、ちらほら聞こえてきました。まあ、昔ほどの大合唱ではありませんけどね。


まあ、こんな感じです  3病院たらい回しという朝日の記事に対する医療関係者の方々の弁

そんな彼らの枝葉な一言一句に過敏に反応しても仕方がないと達観できることを日々自分の目標にしてはいるのですが、まだまだ修行が足りません。ついついこうして何か言いたくなってしまいます。まあ、そういうわけで、過去にお蔵入りにしていた自分の主張を、一部加筆修正して、今日は述べてみたいと思います。

今日の自分の主張の骨子は、

救急要請を受け入れできない事態という現場の実勢は、ずっと昔からある一定の確率で存在し続けており、その率には大きな変動はない。一方、報道頻度の変動は著しいものがある。情報の受け手側は、「現場の実勢と報道頻度には、大きな解離があるのではないか?」という認識を常に抱きつつ、報道情報の解釈をするのが妥当である。

ということです。


●先ずは、言葉の整理

表題には、たらい回しと書いたが、これは私の本意ではないここでは、メディアが時に使う「たらい回し」という表現は、救急搬送「受け入れ問題」という表現に統一する。以下に、私のその意図を説明する。

昨今の救急搬送の受け入れ先がなかなか見つからないという救急医療におけるシステムの問題をメディアが扱うときに、よく使われる表現が、「受け入れ拒否」と「たらい回し」だ。これらの表現に関しては、医療者側からの反発も大きい。医療者側からは、「受け入れ不能」という表現を使うべきだという声が大きい。

まず、広辞苑(第六版)にて、それぞれの言葉の意味を示しておこう。

「拒否」・・・・要求・希望などを承諾せず、はねつけること。防ぎこばむこと。ことわって受け付けないこと
「たらい回し」・・・・一つの物事を、責任を持って処理せずに次々と送りまわすこと
「不能」・・・・・・・できないこと、なしえないこと、不可能

「たらい回し」という言葉には、無責任のニュアンスが非常に強く含まれる。したがって、この言葉を向けられた病院や医師は、病院側の事情はなんらおかまいなしに、一方的にただ非難されているだけと感じる。そういう意味で、医師の心をへし折るパワーのある言葉だ。「受けれ拒否」という言葉は、病院が新たな救急患者をとても診れるような状況の中で仕方なく新規の救急要請を断らざるを得なかった場合でも、患者側にそうとは受け取ってもらえずに誤解を与えてしまいそうな言葉である。そのため、一部の医療者側からは、「受け入れ不能」という表現を提唱されたこともあるが、まだ、メディアの間ではほとんど浸透していないのが現状である。これらの言葉がかもし出す語感というものは、その感じ取り方が、医療者と患者側の間で大きく異なっている可能性もある。また、同じ医療者同士の間でも、それぞれがおかれている立場によって、やはり感じ方が異なっているように思う。

どの言葉を使うにしても、読み手の間でそのニュアンスが異なるのは避けられそうにない。そこで、私は、いずれの言葉も使用しない。私は、救急搬送「受け入れ問題」という表現を使うことにする。これならば、誰が悪いとか誰の責任とかのニュアンスをその表現の中に含ませずに、医療者と患者の間で、救急システムの問題意識を共有できると思うからである。ただし、引用として用いる場合には、その引用元の言葉をそのまま用いることにする。

● 実は、昔からあった救急搬送「受け入れ問題」

2006年以降の医療報道の中で、救急搬送「受け入れ問題」が報道されることが急に突然多くなった。では、この問題は、昔は”なかった”のであろうか? つまり、昨今の医療崩壊問題にともなって、新たに出現した問題なのであろうか?それとも、昔から”あった”のであろうか?

結論から言う。その回答は、昔から”あった”である。

医療法人 徳洲会が発行する徳洲新聞 (2006.4.17 月曜日 NO.514)には、次のような記載を見ることができる。

徳洲会の研修医制度は八尾病院設立の75年から始まりました。日本中で救急車のタライ回しが社会問題となった中、徳洲会は救急車を決して断らないという方針を引っ提げ医療界に登場し、それは現在まで脈々と続くバックボーンとなっています。

また、救急医療を題材にしたエッセイなどの著作でも知られる救急医の浜辺祐一氏は、その著作の中で次のように書いている。

救命救命センターからの手紙、再び  浜辺 祐一   集英社 2005年  P8

最近ではマスコミなどでよく取り上げられるようになりましたが、「救命救急センター」なるものが生まれたのは、実は、四半世紀も前のことになります。誕生のきっかけは、昭和四十年代に起きた、いわゆる「たらい回し」事件でした。時は高度成長期のまっただ中、日本の経済が急速に拡大していた頃のことです。交通量が爆発的に増え、その結果として交通事故も急激に増加しました。そして、その交通事故による犠牲者が年間一万人を突破し、「交通戦争」と呼ばれるほどの非常事態に陥ってしまったのです。
 (中略)
救急患者の「たらい回し」と言われたこうした苦い経験を踏まえて、通常の救急病院では診きれないような患者たちを引き受けるために作られたのが、救急医療の「最後の砦」と呼ばれる救命救急センターだったというわけです。

警察庁が発表する交通事故統計から、年間交通事故死亡者数の推移をグラフ化してみた。(図1)これをみるとまさに、昭和40年代(1965年~1975年)は、交通戦争と呼ぶにふさわしい死亡の数である。このような時代背景の中、救急搬送「受け入れ問題」も日常的であったと十分考えられる。上記2つの引用はその傍証である。つまり、救急搬送「受け入れ問題」は、日本の救急医療の歴史と共に存在し続けてきたといえるのである。救急搬送「受け入れ問題」をいつ頃から「たらい回し」という言葉で表現するようになったかについて私は資料を持ち合わせていない。ただ、このような昭和40年代の時代背景の中からいつの間にか生まれてきたと考えるのが最も妥当な仮説ではなかろうか?当時の医療状況を仮にその言葉が適確に言い表していたとしても、今の医療状況は全く異なっているわけであるから、慣習という理由だけで、「たらい回し」という言葉を今も使い続けることは、もはや適切でない。

図1

20110724fig3.jpg

さて、データベースG-Search(1984年以降を検索可能)から検索できた最も古い救急搬送「受け入れ問題」の報道は、1985年の朝日新聞の報道であった。何気なく記事の中に「たらい回し」が使われている。

「救急病院」を再検討 厚生省、質向上へ研究班発足 
1985.08.09 朝日新聞

(冒頭略)
しかし、救急病院の制度そのものが、交通戦争さなかの39年につくられ、指定要件も交通事故のけが人の受け入れを念頭に置いて決められているため、救急病院の中には脳卒中、心筋こうそくなど外科以外の急病に対処できないところもある。40年代後半から、専門医の不在、ベッド不足などを理由にした患者たらい回しが相次いだため、厚生省は52年度から初期、2次、3次と、急病の程度に応じた救急医療体制の整備を進め、たらい回し騒ぎは、最近は聞かれなくなった。しかし「救急病院の看板のあるところに行ったのに、診られないといわれた」などの不満が、今も厚生省に寄せられている。

(以下略)

東京都大田区で、1985年12月30日、スーパーに押し入った強盗を追いかけた20歳の大学生が、強盗に刺殺されてしまう事件が起きた。当時の報道記事には、病院の様子がこう記載されている。

勇気ある大学生、5病院が治療断る 都が救急体制見直し 
1986.01.21 朝日新聞


(冒頭略)
20日、東京都衛生局の調べで、Tさんは事故現場のすぐ近くの大学付属病院はじめ5つの救急医療機関から「担当医が忙しい」などの理由で次々に断られ、やっと収容された6番目の病院で息を引き取っていたことがわかった。事態を重くみた都衛生局は今週中に救命救急センターの代表を集めて緊急会議を開き、全国一の陣容と折り紙のつく東京の救急体制の下で「たらい回し」がなぜ起きたかを探り、対策をたてることになった。

(以下略)   ※人名部分はイニシャルに変更

ここでも当たり前のように「たらい回し」が使われている。断った病院の状況は、この記事の中でも明らかにされており、現場から最も近い救命センターは、重体の患者の手術中(記事によると腸こうそく)で、3名のスタッフがそれにかかりきりの状況、もう一つの救命センターも重傷患者の対応中であったとされていた。どちらも重傷の刺傷患者をさらに受け入れられる余裕があるとは到底思えない。メディアは、病院がそういう切迫した状況であっても、なお「たらい回し」という言葉を使うくらいであるから、そう言われた当時の医療関係者は、そんな「たらい回し」報道にどのような思いを持っていたのであろうか?

それはそれとして、こういう記事を見ると今も昔もきっと変わっていないのだろうなあと私は思う。それは、医療に対するメディアの期待と要求(社会の期待と要求と表裏一体)が強すぎて、医療の限界は受け入れようとしない、あるいは、それは考えたくないのであえて思考停止しているといった心理状況である。そういう期待と要求の強さが、いつの間にか、医療批判やバッシングに変容していくのだろうと思う。

救急車搬送「受け入れ問題」の程度は、昔と今ではどうなのだろうか? データで検証してみた。 東京都における救命センターへの搬送状況ということで昔と今を比較する。

東京消防庁はこの大学生刺殺事件をきっかけとして、東京23区内における救命センターの患者受け入れ状況を調査している。その調査報告に関する報道は次のようなものであった。

救急病院のたらい回し、他に20件 消防庁が12月分を調査  1986.02.06 朝日新聞 東京朝刊 

 「勇気ある追跡」で死んだ東京都大田区の明大生Tさんが最終収容されるまでに5つの病院に応急処置を断られていた問題をきっかけに、東京消防庁が搬送したすべてについて追跡調査した結果、Tさんの事件が起きた同じ昨年12月中に、他にも計20件の「たらい回し」があったことが5日明らかになった。Tさんの「病院たらい回し」では、断った5病院の中に、一刻を争う重体患者のための救命救急、救急医療両センターが1カ所ずつ含まれていた点が大きな問題になっていた。このため、同消防庁は、昨年12月の23区内での救急車出動(約2万4000回)の記録を洗い直し、都内に計13カ所ある救命救急、救急医療センターに収容された357人の搬送経過を追った。重体患者については、救急車に乗せる一方、同消防庁が電話で病院に連絡をとり、「収容できるかどうか」聞く、通称「ノック」が行われる。357人にこの措置がとられたが、20人は、センターを5カ所以上ノックした後、やっと受け入れ先が決まったことがわかった。各センターは、「重症患者取り扱い中」「手術の最中」などTさんのときと同じような断りの理由を挙げていた。救命救急、救急医療センターは「最後の救急病院」といわれ、集中治療施設(ICU)などを備え、専任の医療スタッフが24時間体制で待機している。東京都の運営要綱などで「常時、救命医療に対応できる体制をとる」と決められ、Tさんの「たらい回し」が発覚した際、「起きないはずのことが起きた」(都衛生局)と関係者は深刻に受けとめた。しかし、こんどの追跡調査によって、Tさんの問題は例外でないことが浮き彫りになった。都は改善策として、東京消防庁とセンター間をホットラインで結ぶことを決め、3月中に実施する。しかし、センターで他の緊急手術が行われている最中に別の要請があった際どうするかなどの問題点がまだ残されていることも明らかになった。

※原文の実名などはイニシャルに変更しています。

この報道記事を1985年12月に東京都内の救命センターに入院した357人を対象として調査した結果、20名が受入れまでに5回以上の要請を要したというデータを、昔のものとして、ここで使用することにする。

最近のデータとしては、総務省消防庁が報道資料として公表したものを用いる。

2008年・・・平成20年中の救急搬送における医療機関の受入状況等実態調査 
        生データ引用箇所 P33,P32
2010年・・・平成22年中の救急搬送における医療機関の受入状況等実態調査
         生データ引用箇所 P36,P37

これらから、東京都における、救命救急センター等の医療機関に受入れの照会の部分の生データを採用した。
総件数をN、4回以上をA、4回をB。この生データから、4回以下=N-(A-B) 、5回以上=A-B と算出した。

2008年・・・N=24695  A=1989、B=741  よって、4回以下=23447 5回以上=1248
2010年・・・N=27426  A=1933、B=830  よって、4回以下=26323 5回以上=1103

見やすいように表にまとめた。

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照会回数に5回以上を要した受け入れ困難事例の頻度は、全体の4~5%程度で今と昔で全く変わっていないことが読み取れそうである。また、フレームを変えていえば、今も昔も、95~6%の救急患者がきちんと救命センターに受け入れてもらえているともいえるわけである。


そもそも、リスク一般について考えた場合、リスクは決してゼロにはできないものである。もちろん、ゼロに近づける努力はするという前提においてだ。ただし、リスクをゼロに近づければ近づけようとする程、コストや医療リソース(人・物)は、無限級数的に増大する。だから、現実的には、どこかでリスクを受け入れる妥協点を引いて、社会システムを組むしかないのと思う。もっとはっきりといえば、「断念」するというメンタリティを国民一人ひとりが持つしかないともいえる。しかし、対世間的には、どこの組織においても「あってはならない」と発信することはあっても「もう仕方がないですよ」と公的メッセージを発信することはまずない。そうはっきりと言ってしまえば、マスコミ対応が極めて大変になるであろうからと思う。組織の対マスコミ対策としては、無難な「おもしろくない、ありきたりな回答」が、定石とすれば、必然的に「あってはならない」となるんだろうと思う。

ここで示したように、今も昔も、ある一定の割合で受け入れ困難事例は存在していたことがわかった。救急搬送「受け入れ問題」も、医療システムの中における一つのリスクであるから、そういう意味では同じに考えないといけないと思う。はたして、これからの救急搬送「受け入れ問題」報道に、そのような「断念」や「受容」の視点は今後出てくるのであろうか? もしそういう視点がマスコミから出てきたら、それはマスコミが一つ成熟した証だと、肯定的に受け止めていきたいと思う。

● 昨今の救急搬送「受け入れ問題」に関する報道の実態

まずは、救急搬送「受け入れ問題」に関する報道に関して、どのような単語が使われた傾向にあるのかを調べてみた。調査は、有料のデータベースG-Searchを用いた。報道機関は、読売、朝日、毎日、産経の全国大手四紙と共同通信社を対象とした。見出しとして使われた単語の検索のみを行い、記事本文中に使われた単語の検索までは行わなかった。検索結果を表として示す。なお、ヒットした全ての見出しを実際に自分の目で確認したわけではないので、対象外の記事が”ノイズ”として若干は混入していると思われる。具体例として、一例を挙げておくと、検索語「救急 AND 不能」でヒットした総件数15件のうち、救急搬送「受け入れ問題」とは無関係な”ノイズ”も相当に含まれていた。ただし、2009年の7件は、奈良県生駒で生じた搬送事例の記事が主なであり、このときは「搬送不能」を各社見出しに使っていた。このように、他の検索語句においても同様に若干のノイズは入っているであろうこと(私自身めんどくさいし、検索料もばかにならなくなるので、いちいち全部の記事詳細までは調べていない)は、承知の上で、傾向を読み取ってほしい。

20110724fig4.jpg
奈良の大淀病院の事例は、2006年10月、毎日新聞報道が契機であった。出産中の妊婦が大淀病院で急変し、19もの病院に転送を打診したが受け入れてもらえなかったという報道は、まさに医療崩壊の社会問題がどんどん深刻化しているさなかであっただけに、社会的に大変な反響をもたらした。そのため、メディアはこの事例を契機に救急搬送「受け入れ問題」に関する報道を興味を持ち始めた。2006年のヒット件数の増加はそれを裏付ける結果と解釈してもよさそうである。


さらに、ヒット件数が2007年から激増している。これは、2007年8月に奈良~大阪で発生した事例が契機となっていると思われる。その事例とは、奈良で救急要請をした妊婦の受け入れ先病院がなかなか決まらず、10件目でようやく大阪の病院に受け入れ先が決まったが、胎児は死産という結果になったものであった。この事例は大淀病院に引き続いてまた奈良で起きたということもあり、そのことがよりいっそう報道に拍車をかける要因となった。いずれにせよ、明らかに、メディアはこの事例をきっかけとして、以降、爆発的に救急搬送「受け入れ問題」に関する報道を行うようになっていった。しかも、そのメディアの姿勢は、わざわざ昔の事例を掘り起してきてまで、報道するという加熱ぶりであった。上記結果で、検索ヒット件数が桁違いに増えているのはその動きの反映である。 そこで、2007年8月以降に救急搬送「受け入れ問題」として報道された15の事例については、別表として報道日順にまとめてみた。この2007年8月の事例が、その別表の記事No.1である。以後の事例は、全てを網羅できているわけではないが、2007年以降のおおまかな報道実態はこれで俯瞰できると思う。

2008年になっても、その報道は沈静化しなかったということも、上記検索結果は示している。その一因としては、2008年10月に東京で発生した事例-脳出血を発症した妊婦の受け入れ先がなかなか決まらずに、再度の打診で墨東病院が患者を受け入れたが、妊婦は死亡したもの(別表 記事No.9)-が大きかったのではなかろうか。

●過去の事例をわざわざ掘り出してきて報道する

メディアは、注目すべき話題があると、それに関連する事例を積極的に選んで報道する。そのため、旬の話題の場合、その報道頻度の急な増加は、あくまでメディア側の意図であり、実際にその旬の話題が世の中で起きている頻度(実勢頻度)の急な増加をそのまま表すものではない。過去の事例をわざわざ掘り出してきて報道する姿勢などがその良い例である。エレベーターの事故が起きれば、エレベーターの事故報道が増え、回転ドアの事故が起きれば、回転ドアの事故報道が増えるといった具合である。まさに同じことが今、救急搬送「受け入れ問題」に関する報道で起きているといえよう。事実、別表で挙げた15事例のうち、6事例(記事No.5,7,10,11,12,14)も過去の掘り出し事例であることがわかる。情報の受け取り手としては、この辺りのメディアの報道姿勢をよく理解したうえで、物事を判断していく必要性があるのである。つまり、救急搬送「受け入れ問題」に関する報道が増えたからといって、「受け入れ問題」の実勢頻度が同じ割合で急増したわけではないのである。したがって、救急車を呼んでも行き先がないのではないかと必要以上に不安になることは、報道に不安を煽られてしまっているという態度といえるであろう。そのような報道に煽られてしまった方が、また現場の医療者を必要以上に苦しめることだってあるのである。私は、そんな事例を自ブログに書いたこともある。

●救急搬送「受け入れ問題」を死亡との因果関係に直結させて考えてはならない

救急搬送「受け入れ問題」の報道がなされた直後、その報道を話題とした一般の方々のブログなどを読むと、しばしば、受入れが遅れたから(原因)、患者が死亡した(結果)という受け取り方をしているものがある。つまり、原因と結果が非常に単純化されて認識されているのである。なぜだろうか?それは、人にはある認知の性向があるからだと思われる。その認知の性向とは、クリティカルシンキング(論理的思考)の入門の本に次のように指摘されている。

クリティカルシンキング 入門篇   E.B.ゼックミスタ、J.E.ジョンソン著 北大路書房 1996年 P35

人は目につく出来事や、他のすべての出来事の中から浮き上がって見える出来事だけに注目し、それが原因だと即断してしまう傾向があるので注意せよ。 

本来、人の死亡原因を医学的に考察する場合は、常に多面性とあいまい性(≒確率的な存在性)を要求される。一方、報道は、わかりやすさを絶対的に要求されるため、原因考察は単純化されやすい。医療者は、医学的知識が一般の方々より豊富であるために、当然医学的な原因考察にも深みがある。だから、救急搬送「受け入れ問題」報道を見て、それを少し深く考えてみたいと思う方は、医師自らが発信している各種情報にもアクセスしながら考えていくのがよいかもしれない。ツイッターなどはそのツールとしてのよい一例であろう。報道ニュアンスとは、また違った見方をを自らが知ることのできる良い契機となるとは思う。また、別に深く考えようと思わない人は、どんなにセンセーショナルに大きく報道されていようが、自分の中では、「受け入れ」の遅れと死亡との間の因果関係は、常に保留にしておくという姿勢を貫くのが、必要以上の医療不安を自分自身に抱かないもっとも簡単な方法であろう。

つまり、報道との関わり方を、極力「淡く」するように自己コントロールするのである。 自分自身もそれを自分への目標としている毎日なのだが、今なおその境地に自分が到達したとはまったく思えない。これからもその境地をめざして引き続き頑張っていきたいと思っている。

ブログは、気が向いた時だけごくたまにこうして書くことにします。では。

それと、コメント欄はあえて設けない方針にしました。昔と違って、今は、はてなとかツイッターがありますからね。ご理解ご協力のほどをよろしくお願いします。



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