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荘子の寓話「莫逆の友」を 現代医療風 にしてみた件 [雑感]

久浜、高石、立橋、鳥麻の四人は小学時代からの親友だった。鳥麻と久浜の家は、隣通しで、しばしば庭の境の生垣を大またで乗り越えて、互いの家を行き来したものだった。久浜は、四人の中のリーダー格で、運動能力も一番だった。鳥麻は、四人の中では一番の物知りで特に昆虫には詳しく、別名昆虫博士と呼ばれるほどであった。立橋は、一番の大柄だったけれども、少し抜けたところがあって、皆からは、”ふっとちょ”としばしばからかわれていた。高石は、色黒で、性格はおとなしめ、運動能力でも際立つところはなく、四人の中では目立たない存在だった。そんな四人は、中学時代までは常に行動を共にする仲間であった。高校は全員別々であったが、それでも頻繁に会い続けた。大学時代になると、会う頻度は減ったが、それでも年末年始などには必ず集まり、互いの近況を語りあったものだった。その後、社会人として、皆それぞれの道を進み始めた。久浜は、東京出版社に勤務して編集の仕事。鳥麻は、内科の医師。立橋は、地元の銀行で営業の仕事。高石は、パイロットとして航空会社に就職


皆がそれぞれの道を歩み始めて、20年近くの月日が流れたある日、四人は久しぶりに顔を合わせて、酒を飲みながら、語りあった。昔話に花を咲かせていたところ、ふと、鳥麻が、皆にこんな話題を振った。

「俺らももういろんな病気になってもおかしくない年だなあ。生と死が一体であると悟った人間、そうだなあ、生を背中に背負いつつ、尻には死をくっつけるような人間のことかな。そういう人間はいないものかなあ。いれば、喜んで友達になるのだが」

すかさず、久浜が答える。
「最近、職場の仲間が死んだよ。くも膜下出血だったな。46歳だった。俺も不整脈を言われてるし、人間は生と死はつねにどこかで一体とおもってなくちゃ今を楽しめないな」

高石が続いた。
「俺なんか、落ちたら終わりだしな。常に死の覚悟は、どこかで持っているつもりだな。病気になると、違うかもしれないけどな。ただ、生と死は一体だというのはわかるわ」

最後に、立橋が答えた。
「うちでもあったな。隣町の支店長が、突然死したよ。部下と歩いていて急に胸が痛いとその場に倒れてしまって・・・・・。救急車で病院に運ばれんたが、だめだったよ。心筋梗塞だってさ。51歳だったよ。前の日に会ったときは、何も変わったことななかったのにね。わからないねえ、人の生と死なんて、そんな意味では、生と死は一体なんだなって思う」

もう一度、鳥麻が言った。
「なるほど、おまえらの話を聞いて、おれも安心したよ。俺らは、生と死を一体と思いつづけるという点で一致だな。まっ、悟るってのはまだおいておくとしても」

四人は、顔を見合わせて、にっこり笑いうなづきあった。改めて、今も昔も、そしてこれからもずっと親友であることを確認しあった瞬間だった。

そんな久しぶりの集まりから一年程経ったある日、アクシデントが発生した。高石がフライトを終えた空港から自宅にタクシーで帰宅する途中に交通事故に巻き込まれたのだ。高石の乗るタクシーが右折しようとしたところ、直進する大型トラックと衝突。タクシーは大破し、タクシードライバーは即死という惨劇だった。高石は、死亡こそ免れはしたものの、顔面挫創、外傷性顔面神経麻痺、左肋骨多発骨折、肺挫傷、骨盤骨折、肝損傷、両下腿切断という重傷を負ってしまった。奇跡的に、致命的な脳挫傷は認めず、高次脳機能レベルは外傷前のままであった。

少し経過が落ち着いてきたころ、立橋が、高石を見舞いに訪れた。

高石は、立橋に言った。
「偉大だね、天の造物者は。俺の体、見てくれよ。ほら、顔をゆがんじゃったし、足は膝から先が亡くなっちゃったし・・・・・」

鏡に映った自分の姿をまじまじと眺め、
「なんとまあ、ずいぶんと私の体をいじってくれたことか」

それを聞いた立橋はこう尋ねた。
「おまえ、もうパイロットは無理だし、さすがにいやだろうね」

高石は答えた。
「んん・・ありがとうな。心配かけるな。おれもいろいろ考えたよ。そりゃ、最初は、何でおれだけが・・・・と思うこともあったさ。もう、仕事ができないと思うこともあったさ。だけどな、一年前の話をふと思い出してみたんだ。鳥麻が言ってただろう。生と死が一体でどうのこうのって・・・・。それを思い出してさあ、いろいろと考えてみたんだ。で、今は、もういやじゃないさ。さらに言うと、これ以上状態が悪くなっても、それでも結構だ。天の造物者が、今度は俺の肘を弓に変えるというのなら、鶏を撃って、チキン丼でも作ってやろう。俺の尻をタイヤに変えるのなら、トヨタに頼んで新型車として売り出してもらおう。そうすれば、俺はパイロットをしなくても生きてゆけるよ」

さらに、高石のしゃべりは留まるところを知らない。

「この世に生を受けたのは、生まれるべき時にめぐりあっただけのことだし、生を失って死んでいくのも死すべき道理に従うまでのことだ。めぐりあわせた時のままに身をまかせて、自分の運命に従っていくということなら、その生と死のために感情を動かすこともなく、喜怒哀楽の状なんて入り込む余地はないよ。こういう境地を、県解、つまり束縛からの解放というんだよ。生への束縛から自分を解放できないのは、自分の周りの環境が束縛されそれに凝り固まっているからさ。そもそも、周りの環境も、天の造物者には逆らえるわけがないのは昔からのことだ。そのことに気が付いたおれは、どうして自分の今の状況をいやがることがあろうかってところだね」

高石の交通事故から、さらに二年程経って、今度は、鳥麻が病床に伏した。原因不明の肺炎だった。内科医である鳥麻は、日々肺炎の患者を診療していたにもかかわらずだ。幸い、院内感染の兆候はない。新型インフルエンザもSARSも否定的だ。いわんや、よくある細菌性肺炎、マイコプラズマ、レジオネラなどはとうに否定済みだった。新種の未知のウイルスによる肺炎かもしれない。あるいは、自己免疫が複雑に関与した病態かもしれない。現在の医学ではとにかく説明がつかなった。しかし、病状は刻一刻と悪化への道をたどっていった。

はあはあと息も苦しげにあえず鳥麻の前に、現代医学はなすすべもない状況だ。そんな鳥麻を妻や子どもたちが取り囲み泣いていた。そこに、久浜が東京から急遽かけつけ、見舞いにやってきた。

久浜と鳥麻の妻は、以前からの知り合いでもあった。だからかもしれないが、久浜は、歯に衣着せぬ言い方で、妻にこう言った。
「静かに!奥さんは子供をつれてあちらへ。天の働きをを邪魔してはいけないよ」

久浜は、病室から家族を退室させ、ドアをぴしゃりと閉めた。そして、そのドアにもたれかかりながら、鳥麻に話しかけた。

「たいしたものだな、天の働きは。優秀な医者にさえも、こういう運命を与えるんだな。天は、おまえをどこへ連れてゆこうとしているのだろう。ねずみの肝にでもするのか、それとも虫の足にでもするつもりなのか」

すると、鳥麻は答えた。
「父母は子どもに対しては、東西南北のどこであろうと命令どおりに従わせるものだ。自然の変化が人間を従わせるのは、父母が子どもに対するどころのことではない。自然のほうで、俺の死を求めているのに、俺がそれに従わなければ、それは俺のほうが素直でないのだ。自然に何の罪があろうか。そもそも自然とは、私たちを大地に乗せるために肉体を与え、私たちを労働させるために生を与え、私たちを安楽にさせるために老年をもたらし、私たちを休息させるために死をもたらすのだ。一年前を思い出すよ。おまえらと生と死とは一体であることを話したことを。生と死は言ってみれば、一続きということだ。だから、自分の生を善しと認めることは、自分の死を善しとすることにもなるのだ。いますぐれた鋳物師が金物を鋳ようとするとき、金物の原料である金属が飛び出してきて、『おれはどうしても日本刀になるんだ』といったとすれば、鋳物師はきっとそれを不吉だと思うだろう。それと同じことさ。いま、たまたま人間の形として、この世に出てきただけの私なのに、『いつまでも人間でいたい、いつまでも人間でいたい』というとすれば、自然は、きっとそれを不吉な人間だと思うだろう。天地の広がりを大きな炉と考えて、自然を優れた万物の鋳物師と見立てよう。それによってどのように鋳られ、どんな形にされようと、何の悪いことがあろうか。けっこうなことではないか。死ぬというのなら、のびのびと眠り、生きるというのならば、ぱっと目を覚ますだけだ」


以上、荘子 内篇 第六 大宗師篇 を現代風フィクションにしてみました。現代の医療の閉塞感とどう向き合っていくかの一つの方法がそこにあるような気がしています。


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NZ地震報道で思うこと [雑感]

連続ツイート形式にしようと思ったが、長いのでブログサイトに記述することにした。


NZ地震の報道姿勢に鑑み、リスク心理学入門(サイエンス社) リスクとマスコミの章から抜粋してみた。

P132より引用

日本のマスコミは、リスク被害の情緒的な表現を好む傾向がある。航空機事故などが起きると、アメリカで真っ先に現地に到着するのは弁護士だが、日本では遺族だというのは、このような傾向を表す挿話としてよくいわれることだが、マスコミの受け手も送り手もリスクに対する遺族などの感情描写に関心を持ちすぎる傾向があるように思われる。これは、二つの点で、われわれのリスク認知に影響を与えていると思われる。ひとつは、このような感情への過度の注視が、リスク本来の原因への関心や将来への防止への関心を薄めさせるという問題である。そしてもうひとつの問題は、これがリスクのカタストロフィックな認知傾向をなおさら強め、その結果バランスのとれたリスク観の形成を妨げる可能性があることである。

とまあ、マスコミの問題点はリスク研究者にすでに前から指摘済みなのであるが、今も昔のままということなんですね、この業界は。

それはおそらく、内省しなければ、自らが不利益になるという状況におかれていない構造がそこにあるからなんだろうと思う。

ひとりひとりの消費者が彼らをはっきりとリジェクトし、それが総和となって彼らの切羽つまっった問題とならない限り、
彼らは、「だって消費者から求められるんだもん~」ということを錦の御旗として、今と同じ姿勢をこれからも続けていくのだろう。

まあ、それはそれとして、

これからの社会構造に合わせたリスク観とは何だろう?

こういう命題を皆さんはご自分で考えてみたことはありますか?

私は、よく考えています。考えるけれども、しばしばよくわからくなります。当然、明確な答えはでません。

でも、日々考える自分にとって、メディアから流れてこんでくる何かのリスクが関連したニュースの類には、いつも違和感がありまくりなんです。

明確な答えは出ないけど、もっと、世の中は、リスクに対して寛容であればいいのに。。。。といつも思っています

※ なお、今はツイッター上を自分の住処としておりますので、このエントリーのコメント欄は設けておりません。


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ブログ終了のお知らせ [雑感]

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このたび、2008年11月2日をもちまして、ブログを終了させる決意が固まりました。1年8ヶ月のブログ執筆期間を通して、多くの方と対話ができました。自分にとって大変有意義な1年8ヶ月でした。皆様に感謝いたします。ありがとうございました。これまで書いてきた255エントリーにつきましては、このまま公開しておきます。左サイドバーにあるエントリー一覧表やブログ検索機能などを適宜ご利用いただければと思います。

ラストエントリーとして、この1年8ヶ月を振り返ってみたいと思います。

● アクセスの多いエントリー  ベスト5

  1. 悩ましい若い女性の下腹部痛   2008.5.21
  2. 昨今の救急報道に関する私見   2008.1.16
  3. マスコミはいつも誰かを責めるだけ  2007.8.31
  4. CT室で失われた命   2007.12.18
  5. あなどれない頭部打撲  2007.5.11

● ブログ主より一般の方々にも見てほしいエントリー7

● エントリー唯一のフラッシュファイル

個人的は、大好きな仏教の説話です。 他責傾向が強い現代社会の中、多くの人にこの話を知ってほしいと思います。

● ブログ主が見る医療崩壊像  

このエントリーは、今年の5月に自由民主党の社会保障制度調査会主催で行われた会合:救急医療現場から時間外労働等の現状報告の資料の一部として提出したものです。ですので、一現場の医師が国会議員の先生方へ呼びかける形式となっています。なぜ、一介の現場の医師の意見が、自民党の会合に直接届くことになったのか? それは、私が、今年の1月に診療関連死法案の反対意見を100名以上の国会議員にメールで陳情した折に、自民党の橋本岳先生が、私の訴えに興味をもってくれたことがきっかけでした。そして、この5月のときは、橋本岳先生から声をかけていただき、私を含め3名の医師が資料を提出する運びとなったわけです。ブログがリアルの社会活動につながった一例だと思います。ブログをはじめとするネット言論をことさらに否定的にみるメディア関係者も一部おられるようですが、私は、印刷された活字であろうが、ウェブ上の文字であろうが、要は内容勝負だと思っています。

● ブログの書籍

これは、私のブログ活動の中でも最も大きな出来事でした。本来、このブログを開始しようと思ったきっかけが、救急初期診療(≒時間外診療)に携わることの多い若手の先生方へ、ネット媒体を通して、私が現場で感じてきた臨床的なピットフォールを伝えたいと思ったことでした。書籍化されたということは、その本来の目的に大きく近づいたともいえるわけです。 ですので、ブログを終了させるタイミングは、今年6月の書籍化された時点から、ずっと考えていました。

● メディア・リテラシー というか 情報リテラシー

今の情報化時代、 メディアが発する情報(新聞、TV、ネットニュース、書籍など)、個人がメディア媒体を通さずに直接に発する情報(ブログ、掲示板ホームページ、mixiなどのSNS) など雑多な情報に、我々は常に暴露されています。 情報を受けとる個人個人の力量が問われている時代といっても過言ではありません。 情報の質を見抜く力、情報をスルーする力、そういったスキルが今問われているような気がします。 情報の質を見抜くことができなければ、不確かな情報で振り回されます。 情報をスルーする力が弱ければ、ネット上での罵り合い合戦になってしまったり、過度に自分が傷つけられてしまったと感じたり、なんとも不毛な時間をすごすことになります。私は、皆様方一人ひとり(もちろん自分自身も含めて)に、この情報を扱う力(ここでは情報リテラシーと称しておきます)をつけて、今の情報化社会を上手に生きていってほしいなと思います。これを、自分のブログを終了させるあたり、皆様方への最後のメッセージとさせていただきたいと思います。 長い間、まことにありがとうございました。

※コメント欄を閉じるかどうかは、まだ決めていません。 しばらくは、承認形式で開放しておきたいと思います。(一部例外エントリーはあり)


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「何もしない」という選択肢 [雑感]

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10月の半ば、季節は秋真っ只中である。 そんな季節に、毎年日本救急医学会総会は開かれる。 今年は、札幌で開催された。私も参加した。今回は特に、高齢者救急のセッションを興味深く拝聴させていただいた。

命の最後の砦ともいえる救命センターで働かれている先生方の「とまどい」や「困惑」を、私はそこに感じた・・・・。

運ばれてきたはいいが、このご高齢の患者さんに救命救急医療の適応が果たしてあるのか?

という「とまどい」や「困惑」である。

皆さん、もちろんストレートには言わない。 「連携」「システムの再考」などといういわゆる当たり障りのない無難なマジックワードが頻繁にスライドや口演に出現する。私は、そのマジックワードの裏に、そういった「とまどい」や「困惑」を読み取ったのだ。

人はいつかは死ぬ。もちろん、それに年齢に関係はない。ただ、高齢者であれば、死の確率が高いということだけだ。だから、年齢という要因のみで、高齢者医療を一律に切り捨てるべしと主張しているわけではないので、そういった視点の批判・反論は避けていただきたい。

確かに、救命救急の先生は、現場で頻繁に起こりうるそういった生と死に関する倫理的な側面をプロとして日ごろから考えておくのは重要だ。だから、学会でこういったセッションがあり、救命医がそこでディスカッションすること事態は意義あることだと思う。

しかしである。

彼らがそれを一番に考えるべきだろうか? 私はちがうと思う。 

それをもっとも考えるべきは、救命医ではなく全国民ひとりひとりではないのか?

残念ながら、マスコミは、そういったことは積極的には言ってくれない。それも仕方がない側面はあろう。彼らにしてもいろいろしがらみはあろうから。

私は、医療崩壊が騒がれる現代の医療において、軽視されているかあるいは忘れ去られている選択肢がひとつあると思っている。

それは、

「何もしない」

ということである。

私が最も尊敬する先生の一人である関西医大心療内科の中井教授がずいぶん前に朝日新聞にお書きになった記事を紹介する。

「人生の秋」 中井吉英(臨床医の目) 【大阪
1995.08.02 大阪夕刊 3頁 3総 写図有 (全1,016字)

四季にたとえれば、中年期は秋に当たる。私は秋が好きだ。人生に秋がなければ、どれだけ味気ないだろう。夏から、いきなり、あの厳しい冬に移り変わるとしたら。残念なことに、素晴らしい人生の秋を体験しなかったと思われる人に出会うことがある。特に男性の場合、社会の最前線で活躍し、四十歳からの厄年を何事もなく通り過ぎてきた人たちが多い。六十五歳になるAさんもその一人だった。常に第一線を歩み続けてきたジャーナリストで、前だけを見て生きてきた行動的な人である。そんなAさんが、定年後、胸の痛みに繰り返し襲われるようになった。心電図に異常はなかったが、入院してもらい、血管造影検査をした。その結果、心臓の筋肉に栄養を送っている冠動脈の攣縮(れんしゅく)が痛みの原因だと分かった。冠動脈を拡張させ、血液の流れをよくするニトロール舌下錠を飲んでもらったが、目ぼしい効果はなかった。胸痛は、不安に伴う急激な自律神経失調のため冠動脈にも異常が現れる「パニック(恐慌)障害」だったのだ。診察すると、肉体は五十歳代半ばの若さである。なのに、胸の痛みの背後に潜んでいる「老い」と「死」に対する不安に抗し切れずにいるに違いない。本人は、そのような内面の急激な変化にまだ気付いておらず、体だけが不安を先取りして訴えている。定年退職するまで夏を生きてきたAさんは、秋を体験しないまま冬に直面していた。中年期を経ずに、突然、青年期から老年期に迷い込んでしまった。
彼は「何かをする」ことに人生の価値を置いてきた人。仕事が人生のすべてだった。だから定年後、「何もしないこと」にどうしても意味を見いだすことができなかったのだろう。Aさんに限らず、私たちはたいてい「何かをすること」にこだわって生きている。中年期は「何もしない」ことの意味を学び、その知恵を生活の中に見いだす大切な時期である。厄年での病気や挫折は、人生のターニングポイントなのだ。「何もしない」ことの中に喜びや楽しみを見いだせた時、私たちは豊かな老年期を迎えることができる。私は彼に「毎日の生活の中での喜びと楽しみを一つだけ発見してくるように」と宿題を出した。何もせず、「あること」の意味を問うたのである。「何もしない」人の中には、千数百年後の今でも、私たちに深く影響を及ぼし続けている人がいる。ボディ・ダーマ(達磨=だるま=大師)である。面壁八年。彼はただ黙々として座り続けただけだった。(関西医科大学教授心療内科)

一人の人生の生き方を、四季にたとえる先生の考えが私は大好きだ。それでいくとまさに私は秋真っ只中ということになる。これから自分にもやってくるだろう冬に向かって、自分自身の「何もしないこと」の意味を、個人的にはゆっくりと考えていこうと思っている。

さて、今度は、この四季の考えを「個人」から「社会」に拡張してみてはどうだろうか?

そうすると、まさに日本社会全体が、これから「夏・秋」主体社会から、「冬」主体社会に今後確実に変わっていくことになる。

ならば、社会のインフラである「医療」においても「何もしない」という意味を社会として少しは考えてみてもよいのではないかと思う。現状では、あまりに考えなさ杉でないでしょうか?

一般的に言えば、救命センターの先生方は、医療において「何もしない」という選択肢の最も対極に位置する先生方である。

だから、年々搬送依頼が増加している高齢者の救急医療に「とまどい」が発するのも無理もなかろうと思う。

「何もしない」なんてとんでもないとお感じなる方もいるであろう。もちろん、ここでの「何もしない」という表現自体は、あくまで私の意図的な誇張表現である。だから、その文面そのままに受け取らずに、積極医療(集中治療移植をはじめとする高度先進医療など)を控えるという意味から、本当に何もしないまで、すごく幅のある意味だと受け取ってほしい。

「何もしないこと」をな~るほどと感じてみたいなあと思われる方には、中国の老子・荘子の思想に触れてみることを私はお奨めする。何もしないということは、「死」をどう考えるかということにストレートに結びつくからである。 参考エントリー:生と死は対立ではない


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サキヨミのトリアージ批判について考える [雑感]

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サキヨミというTV番組があるらしい。この番組で、あの秋葉原殺傷事件における救急活動に批判の目が向けられたようです。そのキーワードは「トリアージ」です。私は、この番組を見ていないので直接の感想を抱くことはできませんが、間接的に伝わってくる情報から、この批判について考えてみたいと思います。

まずは、サキヨミHPにある視聴者からのメッセージの欄には、こちら からアクセスできるようです。
トリアージ批判の番組に対しては、2件ほど感想が出ています。ただ、『当BBSには、不適切な発言がなされた際に書き込みを制御するシステムを導入しております。』ということらしいので、強い主張のメッセージはそう多くないかもしれません。

私は、この番組の存在を、このブログへのコメントではじめて知りました。情報提供ありがとうございます。ビビりの研修医先生からのコメントです。 そのまま引用します。

自分の持つ媒体がないため、ここで書き込ませていただくのをお許しください。10月5日放送の「サキヨミ」で、秋葉原無差別刺殺事件への検証が行われ、

・大災害でもないこの事件にトリアージがそもそも必要だったのか?

イギリスで起きた大規模災害でさえ、黒タグが2人だったにもかかわらず、今回の事件では6人にも付けられた

・周囲に病院が20件弱あったにもかかわらず(黒タグだったため)搬送が非常に遅れた患者がいる。黒タグが現場を混乱させたと考えられる。

・複数回行うのがトリアージであるにもかかわらず、最初に黒タグを付けられたことを「誤って黒タグをつけられ、本来ならば一刻も早く搬送されるべきであった」(しかも、トリアージは原則複数回行うものである、途中で救急隊の判断により赤タグに変更された、という事実関係を一切無視して。)とコメントされた。


と非常に事実認定がいい加減な批判がされていました。トリアージをやるならやるで「戦争を連想させるから」と批判し、やったらやったで、「誤って黒を付けられた」と批判される。明らかに「救急隊の誤り」という結論でコーナーが締めくくられてしまいました。日本の救急体制にさらなるダメージが加わった瞬間だと思います。医師がいなくなるのに加え、患者さんを搬送してくれる、救急隊員までもを責めて、いったいマスコミは何をどうしたいのでしょうか。(なんちゃって救急医先生へ。この書き込みはこのスレッドへのレスポンスとして明らかに方向性を間違っている書き込みだと思いますので、不適当だとお考えの場合は、どうぞ削除してください。ただ、無視できないと考えて書き込ませていただきました。)

ご覧になられてこのようなご感想だったようです。

モトケン先生のところでも、6月21日エントリーの秋葉原事件現場におけるトリアージに新たなコメントが付き始めています。

私の感想です。

こういう批判は、果たして医療をよりよくするのに役に立つのでしょうか? とはなはだ疑問だと思いました。私もビビリの研修医先生の「いったいマスコミは何をどうしたいのでしょうか」と同じ気持ちになりました。

もちろん、社会の中では様々な立場がそれぞれありますから、各立場の人たちがなんらかの批判をする自由はあります。だから、私は「トリアージ」の批判をするなと主張するわけではありません。ただ、批判するなら、それとともにその業界に対する敬意も同時に表してほしいと思うのです。

なぜ、メディアは、こういう批判番組を企画し放送するのか?

自分が生きることそのものに内在するリスクなるものを、自分自身が受け止めようとせずに、リスク回避を援助する立場の人たちに、それを丸投げし、過剰に責任を負わせようとする無意識の心理が番組制作者にあるからではないでしょうか? いや、番組制作者にかぎったことではなく、平均的な日本人一般の平均的な心理としてそれが存在しているのかもしれないと思います。

もちろん、番組製作者の方々は、自らの良心と価値観に基づき世に訴える番組を作りたいという熱意はあるのでしょうが、無意識のままでは、彼らの本意しないところで医療者との溝を深めてしまうことになるような気がします。

上記メッセージ欄(こちら)からの一部引用してみます。 

ほんとに寂しい国だと思います。そういうところを論議した方がよっぽどいいと思います

私も同感です。リスクをリスクとして受け止める心のありようが社会的にもっと議論されることを望みます。

事後を検証し、今後に備えるという発想事態は良いのですが、メディアは、常に、批判と敬意のバランスをとって報道してほしいと思います。そう思うのは、モトケン先生のブログでのコメントを目にしたからです。

なんにしても現場で奮闘されていた救急隊員の方々に対する思いやり、敬意のかけらは見られませんでした。

去年の夏、メディアに向けて書いた私のエントリーマスコミはいつも誰かを責めるだけ が思い出されます。メディア業界は、批判と敬意のバランスに欠いている風潮が強いんだなと改めて私は思います。


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ゴータミーの話をフラッシュにしました [雑感]

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始めに・・・
最近フラッシュファイル作り方を少~しだけ覚えました。ほんの少しであっても素人がそれなりに楽しめますね。今回、自作のフラッシュをこのエントリーの最後においています。ネット上には、心臓どきどきの初公開です。どうぞご覧下さい。(閲覧可能な適切なPC環境などの技術的なご質問にはお答えできる知識はありません。どうかお許しを。)

さて、本題。

医療崩壊問題は、政策の問題としてだけではなく、個人の死生観の問題と深く結びつけて考えないと好転はきびしいのではないかと私は常々考えている。これに関して、私は以下のようなエントリーを書いてきた。

日本人の「死生観」と私の思い
割り箸訴訟と医療の不確実性
遺族の納得はどうしたら得られるのか..
わすれられないおくりもの
生と死は対立ではない
「死」に対するコミュニケーションに..
五輪旗で医療崩壊を語る(その1) の「1」
医療ミスはいけないことでしょうか?
高齢化社会と死生観についての私見
医療は発展し続けるべきなのか?
他人の死から自分の生を学ぶこと
赤塚氏へのタモリの弔辞に思うこと

これらの中から、2008年元旦のエントリー(日本人の「死生観」と私の思い)の後半部分を再掲する。

喪われた共同の「日本人の死生観」を復興させる私なりの提言をする。まず、医療者自らが、自らの内面を見つめ、まず自分でそれを考え、考え続けること。そして、次に、私達医療者が、その専門性に関係なく、患者に積極的にこのような気づきのアプローチをしていくこと。それらが、私達医療者が出来うる現実的なささやかな第一歩なのかもしれない。そして、それらが「個」から「社会」レベルへと上手く拡充していくとき、ようやく初めて、新たなる共同の「日本人の死生観」なるものが構築されていくのだろうと思う。少なくとも、私は、そう考えて、自らを見つめなおすとともに、今年、これから出会うであろう患者には、このような気づきのアプローチで接していきたいと思っている。

この9ヶ月、私なりにいろいろと考えた。 考えていくうちに、中国荘子老子の思想(老荘思想)に出会った。そして、それらの思想は、仏教の開祖者であるインドの釈迦の思想とも共通点があることも知った。もちろん、これらの分野を専門的に研究している人たちからみれば、不十分な知識と理解に過ぎないのかもしれないが・・。それでも、今の医療のあり方を個人的に考え直す大きなきっかけとなっていることはまちがいない。

その理解度はともかくも、これらの思想家は、生と死に真正面から直面し、考え、その思想体系を確立してきたということは明らかだ。

その一方・・・・・・
戦後の日本社会においては、「老い」や「死」と直視することを避けている風潮が蔓延しているとはいえないだろうか?この問題は、すでに多くの人が指摘している。ここでは一例として、少し古いものではあるが、柏木先生の記事を挙げておく。いや、古い記事であるが故に、この問題は、今の医療崩壊問題に始まったことではなく、昔からずっと存在し続けているといえるのかもしれない。

老いと死、若者に伝える 終末期介護20年の柏木医師
1993.03.25 朝日新聞 東京朝刊 (全1,046字)

末期がん患者らの医療施設(ホスピス)として知られる宗教法人・淀川キリスト教病院の副院長、柏木哲夫医師(五三)がこの四月、大阪大学の人間科学部教授に転身、老いと死を体系づけた「臨床老年行動学」を教える。「
現代人には死を見つめる姿勢が大切。経験をもとに、若い人たちにあるがままを伝えたい」

柏木さんがターミナルケア(終末期介護)に取り組んで約二十年になる。病院にホスピス(二十三床)ができて以来、がん患者ら千八百人が入院、うち千五百人をみとった。

末期がん患者の場合、最期の約一カ月間にその人の人生が凝縮される。感謝の気持ちにあふれた人は感謝して、不平がちな人は不平を言いながら--
人は生きてきたように死んでいく、と実感した。例外は信仰による変化だ。

死ねば一切「無」と思うとこわい。「死とはつらく悲しいこの世との別れだが、新しい世界の出発と思える人は、まだ続きがあるのでそう恐怖はない」。宗教をもつ、もたないの差と考える。大学時代からのクリスチャンだ。

「死を迎えるとき、良い人生だったと思える道を、いま生きているだろうか」と力をこめた。

三つのとき父が結核で死に、看護婦の母の手一つで育てられた。遊び場は母の勤める病院。白衣や消毒のにおいに抵抗はなく、医師は小学校のころからの夢だった。公園で父母に手を引かれる幼子の姿を見て、だれにも言えないさびしさ、つらさを味わった。

「人の心や魂に関心が強いのも、そうした点が影響したのでは」と振り返る。十四歳のとき、祖母が亡くなり、恐る恐る祖母の額に手を触れて厳粛な死を感じた。選んだのは心の医学、精神科医だった。

老いと死の現実を学生に知らせることが教育の第一歩、と強調した。若いとき活動的なほど、年をとると現実との隔たりが大きく、つらさは増す。「私自身、まだ自覚はないが、老いを受け入れるのはつらいと感じます。もう目の前ですが」と笑う。

柏木さんには、患者への安易な励ましが気になる。「
日本中、この間違いが駆けめぐっている」と嘆く。

闘病中の患者に、周りの人が「きっと治る、頑張りなさいよ」と繰り返す。本人はもう頑張りたくてもその力がないのに。「むしろ、しんどいねえ、つらいねえ、といたわりの言葉がほしい。どんなに心が休まることか」

人が生まれる時、お産を助ける助産婦がいる。亡くなる時にも安らかに死を迎えられるよう「助死婦」がいる、という。医師、看護婦だけでなくソシアルワーカーや宗教家、カウンセラーらの支えだ。将来、人間科学部からもそのスタッフを送り出したいと願っている。


私も全く同感である。問題は、多くの人にそれをどう伝えるかである・・・・・・。

最初の引用で私が述べている「気づきのアプローチ」がひとつのポイントになろうかとは思う。

そういう視点で、仏教の説話であるキサー・ゴータミーの話は極めて秀逸だ。

というわけで、これが今回のネット初公開のフラッシュです。どうぞご覧下さい。作品の時間は、2分48秒です。


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赤塚氏へのタモリの弔辞に思うこと [雑感]

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赤塚不二夫氏が、お亡くなりになりました。特に30代後半以降の方々は、赤塚不二夫氏の作品にお世話になった人も多いのでないでしょうか。私自身もその一人です。ケムンパスやニャロメの絵を描いていた子供の頃の自分を思い出します。お世話になった人もそうでない人も、この公認サイトをご覧になれば、赤塚ワールドを体験できます。日本のマンガ文化の土台を作り上げた偉大なお一人だと思います。謹んでご冥福をお祈りします。

さて、そんな赤塚氏でありますが、森田一義(タモリ)氏と随分と深い関係があったのですね。それについては、今回始めて知りました。タモリは、実は私の高校時代の大先輩です。何度かは母校を訪れたことはあるようですが、残念ながら私の在学中の3年間には、ありませんでした。タモリを教えていたという体育の先生は、私の在学中もご健在で、在学中のタモリの話をしてくれていたような記憶があります。

赤塚氏へのタモリの弔辞があまりにすばらしいと思ったので、今回は、それをエントリーにしてみました。 自分たちの生き方と死に方を、それぞれが、それぞれの立場や価値観で見つめなおしてみる良い機会になる・・・そんな弔辞だと思ったからです。

弔辞の様子の動画は、http://jp.youtube.com/watch?v=yxFBBQwUScE で見ることができます。

以下、全文を引用します。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080808-00000046-spn-ent より全文引用

弔辞

 8月2日にあなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。

 われわれの世代は赤塚先生の作品に影響された第1世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクター、私たち世代に強烈に受け入れられました。10代の終わりからわれわれの青春は赤塚不二夫一色でした。

 何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていた時に、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。終わって私のところにやってきたあなたは、「君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションにいろ」と、こう言いました。自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。

 それから長い付き合いが始まりました。しばらくは毎日新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。他のこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。そして仕事に生かしております。

 赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。麻雀をする時も、相手の振り込みであがると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしかあがりませんでした。あなたが麻雀で勝ったところを見たことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかし、あなたから後悔の言葉や相手を恨む言葉を聞いたことはありません。

 あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せるあの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、大きく笑いながらも目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんの額をぴしゃりと叩いては、「この野郎、逝きやがった」と、また高笑いしながら大きな涙を流していました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。

 あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。

 今、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が、思い浮かんでいます。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外への、あの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。

 あなたは今この会場のどこか片隅で、ちょっと高い所から、あぐらをかいて、ひじを付き、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「おまえもお笑いやってるなら弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。あなたにとって死も1つのギャグなのかもしれません。

 私は人生で初めて読む弔辞が、あなたへのものとは夢想だにしませんでした。私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今、お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の1つです。合掌。

 平成20年8月7日、森田一義

すばらしい弔辞ですね。 

私たちは、今、つい何かと、自分にとっての不都合を、誰かのせいにしてしまわないでしょうか?

しかし、あなたから後悔の言葉や相手を恨む言葉を聞いたことはありません。

こういう赤塚氏の生き方を、私たちも見習っていきたいと思いませんか?

あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。

内容もすばらしいし、なんと言っても、最後のすなわち以下が、最高ですね。 わかる人はわかるでしょうが、わからない人のために、ここを引用しておきます。まっ、そういうことです。このバカボンでの超有名なフレーズと、幸福な人生を人一人が送るためには、どうしても欠かせない受容という認識とを弔辞の中でこうも見事に結びつけ、表現したタモリに脱帽です。 この受容という認識の重要性は、私も自分のブログで繰り返し繰り返し主張してきました。特に、荘子の思想と結びつけて、私は主張してきたわけです。

最後の一文

私もあなたの数多くの作品の1つです。

ただ、お見事としか言いようがありません。

しかし、弔辞全体を通して、死の悲しみや悔恨の情が伝わってこないですよね。むしろ、

あなたにとって死も1つのギャグなのかもしれません。

死を肯定しているかのようです。 私自身は、そこがすばらしいと感じているのかもしれません。

参考までに、荘子が、自分の妻と死別するときのエピソードを紹介しておきます。ここにも死の肯定が表現されています。 今回は、老子・荘子を大阪弁で表現しているサイトがありますので、そこから引用させていただきます。(サイト主の個人的解釈が訳文に入っているという点はご了解願います)

http://home.att.ne.jp/wave/ayumi/index.htm  
荘子君 第十八 至楽篇 生死について より引用

生死について  
第十八 至楽篇

荘子くんの奥さんが死んだ
荘子くん、だら~っとしててお盆を叩いて歌ってたんや
そこで恵ちゃんは聞いた
  「奥さんやのに。子供も作って育てた長年の付き合いやんか?
   そんな奥さんが死んだのに、何で泣かへんねん?
   お盆を叩いて歌うなんか、ちょっとヒドイんちゃうん?」
それに荘子くんが答えた
  「変か~?でも、妻が死んだばっかしん時は、悲しゅうて泣いたで。
   せやけど、よぉよぉ考えてみたら、
   人間てなぁ「生」のないとこから来たんや。
   「生」がないばっかりちゃうで、「形」もなかったんたんやで。
   いや、ちゃうちゃう
   もともと「形」ばかりちゃう「形」になる気もなかったモンやねん。
   絶対的なはじまり、天地が曖昧(あいまい)やった頃に、
   変化が生まれたんや
   そこに気が生まれ形になって、命が生まれたんや。
   死んだ命は、その大元に戻っていくだけや。
   それは、春夏秋冬の四季、自然の流れと一緒やないか
   それになぁ。自然のなかの大きな部屋に、
   エエ気持ちで寝ることができるねんで
   そんな至福な人間に向こうて
   『お前がおらんようになって悲しい』て泣くなんて出来へんわ。
   なぁ~そうやろ。
   そう考えたら泣くてコトは自然の法則を無視してるんと思えへんか?
   せやから、ワシは泣けへんねんで」

国民の一人一人が、今をよりよく生きるために、自分の死、他人の死について、自分で向き合い自分で考えること、とても大切だと思います。そんな大切なことを、タモリの弔辞や荘子の妻の死のエピソードが、私たちに教えてくれようとしているのだと思います。


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他人の死から自分の生を学ぶこと [雑感]

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このブログですでに何度か言ったかもしれないが、現代の日本社会は、死と真正面から向き合わない社会だと私は思う。日常の平凡な死は、病院の片隅に追いやられ、多くの人がそこから学べないでいる。一方、一部の非日常的な死(事故・殺人など)は、メディアを通して、毎日のようにセンセーショナルに報じられる。それは自分の生の学習とはなりえない題材ばかりだ。それどころか、変な模倣犯など(例:硫化水素自殺、ナイフ殺人)を増産させているだけではなかろうか?

今の日本、何か、おかしくない?
 
と私は思う。 

それは、国民の心のせいでしょうか? メディアの報道のせいでしょうか?そんなに簡単に割り切れるものではないというのが私個人の考えだ。

とにかく、そんな今の日本のあり方では、他人の死から自分の生を学ぶことの機会をなかなか得にくいのではなかろうか?

そうして、死から学ぶ機会が乏しいまま、身近な人の死に遭遇した場合、多くの人は、戸惑い、受容できないまま、たまたま、その死の近くにいる医療関係者が、ついつい攻撃の対象とされてしまうのではないのだろうか? それが、医療者側からみて理不尽と思える医療訴訟の一因となっているのかもしれない。

そこで、本日は、ある大物先人二名の死に際のエピソードを紹介し、そこから、皆様が、自分の生を考えるきっかけになればと思う。

一人目。 仏教の開祖、釈尊の死である。 いいじゃないか 生きようよ 死のうよ 松原泰道著 P27より引用。

お釈迦様が入滅されたのは八十歳のときでした。(中略) 現代的な言葉で言えば老衰で亡くなったと思っている読者も多いかもしれませんが、じつはそうではありません。じっさいのところは、弟子のチュンダという青年がつくってくれたキノコ料理の毒にあたって亡くなりました。今の言葉で言えば、食中毒死だったのです。(中略) チュンダは強烈な自責の念を感じたでしょうし、他の弟子たちはそのチュンダを非難したにちがいありません。そんな事情を知って、お釈迦様はチュンダや他の弟子たちに、随行していた弟子を通じてこんなことをおっしゃったといいます。まず、チュンダの供養(ご馳走)がどれほどおいしかったと礼を言って、
「わたしは、チュンダの供養(ご馳走)を食べたからと死ぬわけではないのだよ。この世に生を受けたものが必ず死ぬというものは、日ごろから私が説いているとおりだ。たしかに、私の死の縁となったのはチュンダの供養(ご馳走)だったが、命あるものは必ず死ぬものなのだ。それも、偶然ではなくて縁によって死ぬ。咲いた花はいずれ散るが、散らした風雨は縁に過ぎない。花が咲いたということ、それが散るという結果になつながるのだ。たとえ、
わたしがチュンダの供養(ご馳走)を食べなかったとしても、いずれ命は絶える。だから、チュンダよ。案ずることない。ほかの者も決して彼を責めてはいけない。」 (中略) お釈迦様がここでおっしゃっているのは、「人間はなぜ死ぬのか。それは、生まれたからだ。」ということなのです。

いやあ、すばらしい・・・。 見習いたいものだ。今の日本なら、チュンダは訴えられてもぜんぜんおかしくないところだ。私たちは、今、自分の生死に対して、このような捉えかたをする教育をうける機会がいったいどれくらいあるのだろうか? 医療崩壊で、世の中が困った困った・・・というのなら、こういう釈尊の死生観をもっと広める努力を国が行ったらどうなのでしょうか?私は素直にそう思う。

二人目。 老子と並ぶ道教の中心人物、荘子の死である。 荘子全訳 列禦寇(13) より引用。

荘子の臨終のとき、弟子たちは手厚く葬りたいと思っていたが、荘子はこう言った「わしは天と地の間の空間を棺おけとし、太陽と月とを一対の副葬の大玉とみなし、群星を祭壇を飾るさまざまな珠玉と考え、万物を送葬の贈り物と見立てている。わしの葬式道具はもう充分に整っているでないか。どうしてさらに付け加える必要があろう」。
 弟子たちは言った「私どもはカラスや鳶が先生の体をついばむのを心配するのです」。
 「地上にさらしておけばカラスや鳶の餌食になろうが、地下にうずめればケラや蟻の餌食になる。あちらのものを奪って、こちらに与えるだけだ。どうしてまたえこひいきなことをするのかね」。
 人知と言う不公平な尺度で物事を公平にしたとしても、その公平は真の公平でない。知恵者は外物に使役されるものに過ぎず、霊妙な自然を体得した人こそ物と感応してゆくのである。
 
知恵が自然に及ばない事は昔から決まっているのに、愚か者は自己の見解を頼みとして人間世界の事におぼれこんでいる。その働きはうわべだけのもので、浅はかな事だ。なんと悲しい事でないか。

さすが、無為自然の大家、荘子である。自分の死に際しても実に泰然としたかまえである。常人はこうはいかないだろう。しかし、天と地の間の空間を自分の棺おけとするとは、なんともスケールのでかい話である。いかにも荘子らしいエピソードである。 

「知恵が・・・・おぼれこんでんでいる」の部分は、ずいぶんと考えさせられる・・・・・。
知恵=「医療」、自然=「人の生き死に」、愚か者=「人間」、人間世界のこと=「病気と戦うこと」として置き換えてみよう。

「医療」が「人の生き死に」に及ばない事は昔から決まっているのに、人間は、自己の見解を頼みとして「病気と戦うこと」におぼれこんでいる。その働きはうわべだけのもので、浅はかな事だ。なんと悲しいことではないか。

今の医療崩壊現在進行中の日本社会に、荘子が生きていたとしたら、こんな嘆きをするのかもしれない。

いかがでしょうか?
現代の東洋思想を支える基礎をつくった偉大なる先人達、釈尊、荘子などの死に際から、今、私たちは何か学び、考えさせられるものがあるのではないでしょうか?

医療崩壊の流れを変えるには、所詮人の知恵の枠組でしか過ぎない「法律」をいじるだけでは、不十分だと私は思っています。人の生死は、人の知恵を越える自然なのだから・・・。もっと、一人一人の心の領域に立ち入らないと医療崩壊の流れは変わらないであろう・・・というのが本日の私の主張です。


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医療は発展し続けるべきなのか? [雑感]

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医療崩壊が叫ばれる昨今、国家はその対策を迫られている。

医療費抑制の問題、医師不足の問題、医療訴訟の問題、医師・患者双方にいえるであろう人としてのモラルの問題、メディアの問題などなど・・・

多くの人が、それぞれの立場で、この医療崩壊問題と向き合っていることであろう。 しかしながら、日ごろ医療とは無縁であるがために無関心なのであろう「無関心層」の人間が、実数としては最も多いのだろうとは思う。

私は、純粋に疑問に思う。

果たして、医療は発展し続けるべきものなのであろうか?

と。

昨年末のエントリーでも、こんなことを述べていた。病気・死は悪か? というエントリーである。

日本社会の中での、隠れた前提 「病気は死は悪である」=「回避すべきである」

この社会前提を、

「病気・死は、受け入れて付き合うもの」 という

新たな社会前提に改変すべく事業を立ち上げ、そこに技術開発を中止することで浮いた金、人、ものを投入したらどうですか?

もし、国民皆が、こんな心性になってくれたら、ずいぶんと医療もやりやすくなるだろうなあと私は個人的に思います。

要するに、もう医療を発展させないという視点で、思い切って社会構造を変化させれば、また違った動きにはならないかということである。
例えば、製薬会社が、新薬の開発を止めてしまい、その余った財力や人力を使い、よりよく死を迎えるということを目標とした高齢者福祉の充実などに向けることができやしないだろうか?

また、少し違う言い方をすれば、医療がここまで「発展」したからこそ、今の医療崩壊という現象が、その「必然」として存在しているのかもしれないということである。 例えば、今、産科医療が崩壊の危機の先陣を走っているという現実を「必然」とすれば、その背景に、すばらしい産科医療の「発展」が存在しているはずである。

僻地の産科医先生のブログからその産科医療の発展ぶりを示すデータをお借りしてそれを示してみる。
以下の図は、妊産婦死亡の歴史的推移から引用した妊産婦死亡率の歴史的推移である。

2007616.jpg

驚くべき、死亡率の減少である。まさに、産科医療の努力の結晶である。にも、かかわらず、産科医療は今の惨状である。
どうして、この発展をもって、産科崩壊が必然となるのか?

私なりの考察である。
それは、人は、良いものを享受すると、いつしかそれが当たり前(=標準)となり、そうならなったときの結果を受け容れることができなくなったしまうという心理が、元々備わっているからだと思われる。受け容れることができなければ、その矛先が、医療関係者に向けられてしまうことになる。それは、紛争へとつながり、その情報がメディアを介して増幅され、さらに、日本の司法は、患者救済の視点で、判断を下してきた。これらはすべて文化の発展があってこその諸事情である。そして、この産科医療および周辺の文化的発展が、結果として(=必然として)、今の産科崩壊とつながっていると考えるわけである。

わたしは、昨年から、漠然とこんなことを思い続けてきたわけである。ただ昨年暮れ、私が病気・死は悪か? を書いたときは、まだ、老荘思想と出会う前だった。

私は、今年になって、老荘思想を勉強し始めたわけであるが、それでわかったことは、なんと老子は、紀元前何百年の時代において、すでに社会における文明の発展への危惧をとうに指摘していたのだ。

老子 第57章 より

天下多忌諱、
てんかにききおおくして、
而民弥貧。
たみいよいよまずし。
民多利器、
たみにりきおおくして、
而国家滋昏。
こっかますますくらし。
人多智慧、
ひとにちえおおくして、
而奇物滋起。
きぶつますますおこる。
法令滋章、
ほうれいますますあきらかにして、
而盗賊多有。
とうぞくおおくあり。

老子・荘子  守屋洋 著  東洋経済新報社 P128 よりこの文章の解説部分を引用する。

 自然の素朴さをよしとする老子は、文明のもたらす負の面を批判してやまない。このことばはその代表的なものの一つだ。「禁令がふえればふえるほど人民は貧しくなり、技術が進めば進むほど社会は乱れていく人間の知恵が増せば増すほど不幸な事件が絶えず、法令が整えば整うほど犯罪者が増えていく。」というのである。
 文明の進歩は、人類に大きな利便をもたらした。この事実は、率直に認められなければならない。
だが、それに伴って、心の安らぎとかゆとりとか、人間にとってなにか大切なものが見失われてきたことも事実である。それは、私どもが戦後の経済成長のなかで、つぶさに実感させられたことでもある。
 老子は、自然に帰れ、無欲に帰れ、と説く。この主張が現代において、どの程度の実効性を持ちうるかはわからない。しかし、問題の核心を鋭くついていることは認めざるをえない。老子の功績の1つは、早くから文明の負の面に目を向けたことである。

老子のいう文明の発展を、医療の発展に置き換えて考えてみれば、私の漠然と思っていたことそのものになってしまうのだ。自分の考えが、老子と一緒だったなんて、なんとなく素直に嬉しいような気もする。また、事故調なんかが今の原案のまま、通ってしまおうものならば、医療犯罪者が増えて何一ついいことはないだろうなという考えが、この老子の文章から導き出せそうな気もする。(蛇足だが・・・)

今、医療界は、相変わらず、それぞれの細分化した世界で、夢をおっかけ、医療の発展を望みながら、多くの人が動いている。
本当にそれでいいのでしょうか?

少し視点を変えれば、こうは言えないだろうか?
医療の発展を断念するという政治的決断が、一見逆説的でありながらも、未来の医療、ひいては未来に日本を救う鍵とならないだろうか? 

賛同してくださる政治家の先生はいらっしゃいませんか? 
賛同してくださるメディアの関係者はいらっしゃいませんか? 
賛同してくださる一般の方々はいらっしゃいませんか?

まあ、賛同してくれる方がいようがいまいが、私個人は、静かに今の世の動きを眺め、自らの生き方を考えるのみである。


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コード・ブルー 第二話をみて [雑感]

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コードブルーという救命センターを舞台とする医療ドラマが始まりました。医学的内容を抜きにして、ドラマとして見る分には、退屈させずに視聴者をひきつけるようなつくりにはなっていて、おもしろいなあとは思いました。

主役の医師がNEWSのリーダーである山下智久とあっては、その視聴者層も10代、20代が相当数を占めそうです。メディアリテラシーもままならないこの年代の人たちは、「救急医療」なるイメージが、現場の現実よりもこういうTVを通して、刷り込まれてしまうのでしょうね。 ですので、TV製作者にあたっては、医療に過剰な期待を抱かせるものではなくて、医療の限界性を伝えるドラマ構成であってほしいと切に願う次第です。

7月10に放映された第二話においては、残念ながら、医療に過度の期待を抱かせる部分があると私は強く感じました。それは、歯痛を訴える高齢女性の患者さんを帰宅させた藍沢医師(山下智久)が、その患者さんを帰宅させたという判断に対して、同僚医師も上司の黒田医師(柳場敏郎)もそれを強く非難し、さらに御家族までも藍沢を強く非難するということが、ごく当然の流れとしてストーリーとして構成されていたことです。ちなみに、その帰宅した患者は、その翌日に、院内で心肺停止状態に陥りましたが、適切な救命処置にてなんとか一命を取り留めています。

第二話のあらすじは、こちらで参照できます。 ⇒ 第二話あらすじ

第二話の動画は、こちらで参照できます。 ⇒ 第二話動画(上段が前半、後段が後半)

リンク先のあらすじから、 私が気になった部分を抜き出します。

藍沢は、昨夜遅く、歯痛を訴えて救急外来に来た八重を診察し、帰宅させていたのだ。緋山や藤川は、そんな藍沢を非難した。藍沢は、同じ時刻に行われていた、膝窩(しつか)動脈損傷の血行再建手術を見たいがために、八重を適当にあしらって帰した、というのだ。白石は、歯痛から心疾患を予測するのは難しいのではないか、と藍沢を庇った。緋山は、そんな白石の態度にうんざりしたかのように、キレイごとばかりで本音を言わないのは一番卑怯だ、と返す。(上段の動画で 5:00~5:50あたりの場面 )
八重は、意識が戻らず予断を許さない状態だった。黒田は、「よく見ておけ。お前が殺しかけた…いや、殺すかもしれん患者だ」と藍沢に言い放つと、彼が持っていたヘリ用の無線機を奪って緋山に渡した(上段の動画で 6:40~7:00あたりの場面 )
あくる日、藍沢は、八重の家族に直接謝罪したい、と田所に申し出る。前夜、八重は意識を取り戻していた。藍沢は、八重の家族に責められても、頭を下げ続けた。(下段の動画で 19:45~50あたりの場面 )

たしかに、急性心筋梗塞という地雷を回避するために、高齢女性が歯痛で夜間に時間外診療を受診したという状況に注意を払うのは、大切なことかもしれません。 しかし、その判断とは、1例1例、状況は様々です。たまたま、そのときに患者が複数いて十分に時間が取れない状況であり、かつ患者さんも早く帰りたいという意思表示をしていたかもしれまん。あるいは、患者さんは、痛み止めだけが欲しいと主張したのかもしれません。

家族が怒りで医師を罵倒する場面がありますが、実際の救急現場で真似をされてしまう方も出てしまうのでないかと思いました。医療崩壊の今のご時勢への配慮が足らないなあと思いました。

その現場にいないものが、後に生じた結果だけでもって、「お前が見逃したことがすべて悪い」という論調は、短絡過ぎると私は思います。テレビを通して、多くの人々の心の中に、「こういうケースでは、完全に医師が悪い」というステレオタイプな見方が植えつけられてしまわないか大変心配です。

では、なぜ、このドラマのように、医師を含めた当事者以外は、当事者を非難の目で見てしまうのでしょうか? それを検証してみたいと思います。検証に用いた書物は、クリティカルシンキング 入門編 北大路書房 です。 以下、クリシンと略します。

クリシンP35より
人は、目につく出来事や、他のすべてから浮き上がって見える出来事だけに注目し、それが原因だと即断してしまう傾向があるので注意せよ。

このドラマに適用すれば

帰宅させた患者が翌日に急変した場合(=目につく出来事)は、その診察した医師が原因(=浮き上がって見えるもの)だと即断してしまう傾向があるので注意せよ

ということですよね。 つまり、医師だけが原因と即断してはならないわけです。

クリシンP95より
あなたが、友人の部屋に行った時、彼は小さなイスにつま先立ちして天井を塗っていたとしよう。あなたがドアを開けた時、彼はハケを浸そうとしてバケツに手を伸ばしていた。そのとたん、バケツが床に倒れ、あなたを含めてあたり一面がペンキだらけになった。一段落した後、あなたは彼の行動をどう説明するだろうか。おそらく彼を不器用、不注意、あるいは間抜けと考えるだろう。しかし、もしイスに乗っていたのがあなただったとしたらどうだろう。とたんに調子が変わり、「このイスは低すぎるし、ぐらぐらしてるんだ。」「ハケがバケツより大きすぎた」「君が驚かすから」などと言うに違いない。
自分が観察者である時には、相手の行動を相手の内的原因に帰属しがちである。それに対して、行為者である時には、自分の行動を説明するのに外的要因を強調しがちである。これが行為者-観察者効果といわれるものだ。

このドラマでは、藍沢以外の医師や家族が観察者に該当します。観察者が、行為者である藍沢を過度に批判する要因のひとつは、この「行為者ー観察者効果」というものでも説明可能ですね。藍沢の医師としての能力が低い悪いという批判は、まさに、観察者が、藍沢の臨床能力という内的原因を強調しがちになる傾向から来たものだと説明できるというわけです。また、この理論で言えば、藍沢は、自分以外の要因を主張するほうがむしろ自然ということになります。しかし、ドラマ制作者の意図なのでしょう。藍沢自身でさえも、自分の能力が原因と決め付けてしまっています。つまり、人間の自然な認知の一方だけを強制的に排除したというドラマ構成になっています。

今回のように一人の医師を悪者にするドラマ仕立てよりも、

十分適切な医療であったにも関わらず、残念な結果になることもある。それが医療の本質である

ということを伝えるドラマを作ってほしい。これが私の今回の主張です。

ちなみに、歯痛の人が、心筋梗塞という話は、次の本にも記載されています。
ER・救急トラブルファイル  監訳 太田 凡 P74 真実を知る歯 そこの教訓の1つにこう書いてあります。

歯痛の患者をみたら、少なくとも、痛みが心臓由来かもしれないと心をよぎるぐらいでなければならない。この懸念はたいてい、診察と問診ですぐにどこかへ消えうせてしまうものであるが。

ちなみに、私は、歯痛の患者が、心筋梗塞だったという事例に遭遇した経験はありません。 頭痛と耳痛と頚部痛をそれぞれ主訴とした事例の経験ならありますが・・・・。

当ブログの参考エントリー です。心筋梗塞診断の怖さに関するものです。
たった一枚の心電図
初回検査異常なし≠緊急性なし
意外な頭痛
妻の力にはかなわない
引継ぎに潜む地雷
消化器疾患?実はAMI
左肩痛の女と老女
目を惑わす心電図
目を惑わす心電図(2)

私は、自分の主張として、このブログのエントリーURLを添えて、フジテレビにメッセージを送信しました。皆様も、若い世代の方々が、TVを通して変な医療イメージをもってもらわないようにTV局に意見しましょう。http://www.fujitv.co.jp/response/index.html  ← こちらから、メッセージが送れるようです。


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高齢化社会と死生観についての私見 [雑感]

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救急の現場で仕事をしていて、体感することは、高齢者の救急患者が増えたなあということである。心肺停止患者にいたっては、殆どが高齢者である。

これからどうなるのであろうか? 厚生労働白書(平成19年)によると年間死亡者数は、今後下図のように推移していくということらしい。75歳以上の死亡者の絶対数(緑色の部分)が直線的に激増していくであろうことが、視覚的に飛び込んでくる資料である。
図1.jpg

なるほど・・・。このグラフ中央の縦線より左は2005年以前の実数値であるから、自分の体感を裏付ける資料となる。
そして、これからは・・・・

すでに救急医療崩壊が懸念されている昨今ではあるが、この資料を前にすると、高齢者の救急医療供給体制の未来は暗いといわざるを得ない。

なにか手はあるのか?

そう、ひとつあるとすれば、一般に「生」を「善」とし「死」を「悪」とするという死生観の社会的変容だ。 参考エントリー:生と死は対立ではない

これは、政府という公の立場としては、なかなか言えないことかもしれない。

しかし、医療者の多くは、心のどこかで強く感じていることではないだろうか? そう思いながら、新聞記事を検索してみた。すると、いくつもの著作をお持ちの救急医、浜辺先生が、興味深いことをおっしゃている記事を発見したので、紹介する。

(耕論)救急医療を救うには 島崎修次さん 浜辺祐一さん 佐藤敏信さん
2008.03.02 朝日新聞 東京朝刊 より一部抜粋

「死の迎え方」考えよう 都立墨東病院・救命救急センター部長 浜辺祐一さん

墨東病院は、重篤患者を治療する「救命救急センター」と軽症まで幅広く診る「ER(診察室)」を備えているが、近年、いくつもの病院に受け入れを断られた末、運び込まれる救急患者が目立つ。東京や大阪などの都市部では、重症に対応する2次救急病院が以前ほど患者を受け入れなくなったためだ。2次といっても、大半は夜間や休日、宿直医が1~2人で急患に対応、手術に必要な麻酔医もいないのが実情。「レントゲンを撮れない」「訴訟リスクがあり専門外は無理」と、救急に消極的になっている。その結果、救命センターがいっぱいになり、本当に重篤な患者を断らざるを得なくなっている。負の連鎖だ。救命センターの負担が増えた原因は、ほかにもある。高齢化社会になり、療養病床の減少、在宅医療の促進で、自宅や老人ホームなどの施設から搬送される高齢者も増えた。
本来、突発の患者に備える救命センターで収容するのは疑問に思う例もある。救命センターの現場にいる者として、国民一人ひとりに考えてほしいのは「死の迎え方」だ。墨東病院に搬送される心肺停止患者は年間約600人。そのうち9割以上が高齢者で、末期がんや高齢者施設で意識が混濁した「大往生」と呼ぶべき患者も多い。東京では、心肺停止患者に対して救急車を呼べば救命センターに運ばれ、心臓マッサージ、人工呼吸、薬剤投与などの蘇生処置へと突き進む。家族は「親が倒れたのに、病院にも連れて行かなかった」という状況を受容できない。高齢者施設も「満足な医療を受けさせない」と評判が立てば死活問題になる。人手の少ない2次救急病院も「処置不能」と断る。だれもが死に責任を持てないために、救命センターで体をチューブだらけにして高額の医療費をかけ、どう見ても生き返らない患者の蘇生に努力する。医療技術や機器の進歩で延命は可能になったが、こうした高齢者は生き残ったとしても意識が戻るわけでなく、大半が医療が不可欠な状態のままとなる。家族から「こんなことを頼んでいない」となじられることもある。そうした患者の転院を受け入れる医療機関は少なく、行き場のない患者が救命センターのベッドを埋めてしまう。その結果、救えたはずの患者を断らざるを得ない事態に陥っている。大げさに言えば、いつか入院中の患者を除けば日本人はみな救命センターで死ぬのではないか。膨大な救急のスタッフと医療費が必要となるが、現実的ではない。一般の病院でみとられる選択や自宅で静かに最期を迎える死もあり得るだろう。患者や家族、医療者の間に健全な死生観が醸成されてほしいと願う。

本来、自然の姿である高齢者の「死」が、救命救急医療という非自然の環境の中で、「不自然な死」として、多くの高齢者が死んでいく現状を浜辺先生は憂っておられるようである。 そういう現状を作ってしまう今の国民の死生観を、非健全な死生観とお感じになっているのだろなと私はこの記事を読んで思った。 個人の価値観によるところが大きい死生観を、健全 VS 不健全 と対立構造においてしまうのは、一部の人からは反発を生みかねない表現かもしれないなと私は思うが・・・・。

私は、今、荘子に関するするいろんな本を読みあさっている。世間の中のあらゆる対立概念を超越し、同じと考える(万物斉同)思想にたつ荘子は、人間の生と死さえも、そう考える。 そんな荘子の思想が、閉塞した今の医療には必要になるのではないかと私は考えている。

荘子に関して最近出た本:荘子の心 P181から引用する。

私たちがこれからしなければならないのは何であろうか?自分の心の中の生と死の闘いを正しく観察しよう。そこに生きていく望みがみえたら、私たちは生きていくことを楽しむことができるし、時代の流れに順応することもできる。現実の中で楽しく生き、一分、一秒ごとに楽しく生きていくことができる。そうして、本当に死に直面する時には、微笑んで平然とそれを迎えることが出きる。そうすれば、臨終に際し、「私は今生において思い残すことはない」と言えるだろう。これはすべての人間が到達できる境地であり、現代の荘子解釈の一つでもある。

今の私たちは、メディア報道の偏向性のために、「死」がセンセーショナルに報じられるという社会の中に暮らしている。例えば、殺人、事故死の報道だ。これらの死は、その頻度はとても低いも関わらず、日常の静かな頻度の多い「死」を、報道の仕方、報道の量などいずれにおいても、圧倒している。その結果、「死」を不安に思い、「死」は避けるべきものといった考えが、多くの国民に浸透してしまう。そうした社会風潮は、間接的に医療の生死の現場で、新たな対立を生み出しているのだろうと私は考えている。

最近、私の周りの方の何人かに紹介した荘子の言葉で、本日のエントリーを締めたいと思います。

荘子 大宗師篇

善夭善老、善始善終
わかきをよしとしおいをよしとし、はじめをよしとしおわりをよしとす。

訳:若さを善しとし、老いを善しとし、生まれたことを善しとし、死ぬことを善しとする。
(荘子 第一冊 金谷治 訳注 P185)

今を善しとして今を生きることが、いつかは必ず迎える「死」を受容できることにつながるのではないでしょうか?


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自分の「あるべきやうわ」を考える [雑感]

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???

久しぶりの更新です。今後は、更新の頻度を落としてのんびりとやっていこうと思っています。

皆さんは、鎌倉時代の僧、「明恵上人」をご存知でしょうか?

様々な新仏教が台頭してきた平安末期から鎌倉時代。 明恵上人は、その派手な歴史舞台にはあまり出てきません。 しかしながら、その生き様を支持する現代人はけっこう多いようです。

実際、明恵でぐぐってみれば、いろいろとヒットします。
ここでは、これをリンクしておきます。絵本形式なのでわかりやすいかも。

明恵上人が残した有名な言葉に「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)」があります。

どんな意味なのでしょうか? 明恵夢を生きる 河合隼雄著 より引用します。P251~P253

明恵が提言している「あるべきやうわ(あるべきようは)」ということは、簡単にわかる気もするが、それほど簡単でないようにも思われる。(中略)日本人としては、すぐに「あるがまま」という言葉に結び付けたくなるが、わざわざ「あるべき」と、「べし」という語が付されているところに、意味があると感じられる。(中略)日々の「もの」とのかかわりは、すなわち「こころ」のありようにつながるのであり、それらをおろそかにせずになし切ることに、「あるべきやうわ」の生き方があると思われる。そこには、強い意志の力が必要であり、単純に「あるがままに」というのとは異なるものがあることを知るべきである。(中略)明恵が「あるべきやうに」とはせずに「あるべきやうは」としていることは、「あるべきやうに」生きるのではなく、時により事により、その時その場において「あるべきやうは何か」という問いかけを行い、その答えを生きようとする、きわめて実存的な生き方を提唱しているように、筆者には思われる。戒を守ろうとして戒にこだわりすぎると、その本質が忘れられてしまう。さりとて、本質が大切で戒などは副次的だと思うと、知らぬ間に堕落が生じてくる。これらのパラドックスをよくよく承知の上で、「あるべきやうわ何か」という厳しい問いかけを、常に己の上に課する生き方を明恵はよしとしたのだろう。

もうひとつ引用します。 恋い明恵 光岡明著 P193より。

いま「あるべきようは」は「人それぞれの境遇、能力、職業などに即して、心身共に今現在まさに行うべきことを行うのがよいとの思想、精神をあわわす語」(岩波「仏教辞典」) と定義されています。

私は、それらの心境に、少しでも近づきたくて、先日休みを取って、京都の高山寺まで足を運びました。

JR京都駅からバスに揺られること1時間弱。終点の栂ノ尾についた時には乗客は私一人でした。
ずいぶんと遠いなあと思いました。静寂な木々の深い緑とその隙間から差し込む初夏の光の調和がすばらしい所でした。きっと瞑想にふけるにはうってつけの森だったのだろうなあと感じた次第です。
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そして、高山寺 石水院という建築物の中に入ると、掛けられた一枚の掛け板がありました。その解説には、「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ) 明恵上人が上人自身の日常規制を棒板に白墨にて自筆したもの 」と書かれていまいした。ただ、現物を見ても、字がかすれてよくわかりませんでしたが・・・・。あとは、複製ではありますが、鳥獣戯画の絵巻明恵上人樹上座禅像などを拝観することができました。

医療崩壊の昨今、 大きな社会の流れの中で、変わるもの、変わらないもの、変えられるもの、変えられないものがある。自分が自分としてのそれらにどう付き合っていくのか?

医療者は医療者としての、患者は患者としての、為政者は為政者としての・・・
それぞれの立場で、それぞれの「あるべきやうわ」があるのだと思います。

私自身の、「あるべきやうわ」・・・・・・

すぐには、見えません。今ゆっくりと考えています。

先人達の知恵は、私たちにいろんなことを教えてくれます。 それを自分の中で自分なりに咀嚼して、自分の生き方にプラスになればよいなあと思います。

皆様も、皆様自身の「あるべきやうわ」を考えてみるのはどうでしょう? 皆様自身の生き方をより有意義にするために。


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ブログ出版のお知らせ [雑感]

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当ブログの一部が、今回三輪書店より出版の運びとなりました。6月第2週以降には、書店に並ぶであろうとのことです。

今回の出版に際し、多くの方々のご協力やご助言がありました。そのおかげをもちまして、ようやく出版できることになりました。 関係者の方々に、厚く御礼申し上げます。

特に、出版に際してのコメント掲載の許可を下さったコメンテーターの先生方あってこその出版だと思っています。本当にありがとうございました。

表紙はこんな感じです。
図1.jpg

目次はこんな感じです。
図2.jpg

amazonへのリンクは、こちらから。

私自身、ブログの匿名性に絶対的なこだわりをもってきたわけではありませんが、これまでは匿名を前提に情報を発信してきました。しかしながら、出版化をもって、ブログの匿名性は消失したものと考えています。それをふまえて、今後のブログ運営を考えました。

で、今後のブログ運営の方針です。

1) しばらく更新をお休みします。
最近、私自身の興味が、人間の心と生き方のあり方を見つめることに、向かっています。そういう意味で、自分と向き合う時間が欲しいなあと思うわけです。出版というのは、いい一区切りかなあと思いましたので、このような方針としました。まあ、気が向き次第、ぽつぽつと書くかもしれないし、しばらく放置するかもしれません。それは自分でもわかりません。

2) コメント・トラックバックを承認制にします。
匿名性が消失する以上、自分の制御できないところで、不適切な情報(非匿名性故になしえる具体性の高い情報など)がコメント欄に流れてしまうリスクを心配します。承認制への変更は、そのリスクを軽減させるための措置とご理解ください。常連のコメンテーターの方々には、大変ご不便をおかけしてしまいますが、何卒ご協力のほどをお願いいたします。

まあ、こんな気ままな方針ですが、今後ともよろしくお願いいたします。


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一般の皆様からのコメントに思うこと [雑感]

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ブログの性質上、コメントの殆どが、医師からのものです。ですが、時々は、医療を受ける立場である一般の方々からも、コメントをいただきます。

前回のエントリー:悩ましい若い女性の下腹部痛 においても、ある難病にかかり手術をうけたご経験をもつ患者の立場の方から、私たち医療者へ、とても心温まるコメントをいただきました。コメントを下さった方のご希望により、そのコメントはすでに削除させていただきましたが、この場で、改めて御礼申し上げます。

そこで、今回のエントリーは、これまでにいただいた一般の方と思われる方々のコメントを抜粋しながら紹介する形にしてみます。

木原光知子さんの訃報に関して

私も7年前にくも膜下出血で倒れて、約10ヶ月の入院を経て、少しずつ社会復帰できるようになりました。幸運にも命を助けて頂けたのは、救急医療の現場で日夜を問わずに一生懸命従事されているスタッフの方々のお蔭と感謝しております。

by ひらちゃん

ひらちゃん様、ありがとうございます。感謝の表明は、医療者の心の支えになりえるものです。

死の意味を考える

医療者を含め患者もその家族も、もっと言えば現代人の全てが、命の長短にあまりにもこだわり過ぎているのではないでしょうか?私は5年ほど前に脳幹梗塞になり現在は四肢体幹麻痺の状態ですが、この病気になったことで「病気を治す主体は患者自身」ということを実感しました。医者は、その手助けをするに過ぎません。生きるも死ぬも、治るも治らないも、良くなるも良くならないも、自分の身体なのですから本来は患者自身の問題です。けれど患者はそうしたことを忘れてしまって、「病気」と言えばその責任の全てを医者に丸投げしようとする。それに加え、患者は現在の医療技術に対して過度な期待を持ちすぎなのではないでしょうか?「治して当たり前」的な発想もどこかに存在するような気がします。当たり前ですが、医者の仕事は病気を治すことです。けれど、病気を治したからといってその人が長生きするとは限りません。長生きしたから幸せな人生であったとも限らないし、早死にしたから不幸な人とも限らない。「障害者になったから残念な人生だ」と言う人もいれば、私のように「そうでもない」と感じている人もいる。医療の世界にも哲学的要素が必要であるような気がします。

by banana

banana様、哲学的要素が必要ということに深く共感します。

日本人の「死生観」と私の思い


うちの犬が(犬の)大学病院にいったときのこと。さすがに大学病院まで来るペットたちは重 病そうでした、ある大型犬も大人3人ぐらいが付き添って、いかにもつらそうに入ってきました。その犬が診療に入って半日ほどして出てきてびっくり、足が一本なくなっていました。飼い 主さんの一人は泣いていて周りの人に励まされ一生懸命うなずいていました。私ももらい泣きしてしまいました。しかし、ふと犬を見るとうれしそうに、ひょこひょこ歩いていました。犬 の気持ちはわかりませんから、うれしいかどうか定かではありませんが。そう見えました。今まで痛かった足が無くなり痛み止めが効いていて楽になったのでしょうか。動物と暮らしているといろいろ教わります。その中でも私は「あるがままに」とか「しょうがない」ということを教わりました。

by 肉球


欲しいものは手に入らないから努力をしたり頭を使ったり出来るし、こだわりのある人はこだ わらない事が大切である事をいずれ学習できるのです。そのように考えを進めると、生きている事は素晴らしい。こうしてたくさんの人とお話出来るのだから。老いる事は素晴らしい。た くさんの経験を積んで困っている人の相談に答えられるのだから。病う事は素晴らしい。先生がブログに書いているように何かに気づく事が出来るのだから。だから、私は、喜ばしい死を 迎える事が出来るまで長生きしようと思います。私がここに居る事は全てが本当は喜びである事を私は信じています。大切な気付きを頂戴できて感謝いたします。

by のぶ


実はわたしは父が亡くなる半年前に『老子』に出会い、善も悪もないという価値観に衝撃を受 けました。そして加島祥造さんの『TAO~老子』を父に贈ったこともありました。(宗教哲学を毛嫌いする父からは、何の感想もありませんでしたが)それからはなんちゃって救急医先生と同じように老荘思想にはまりまくりました。『荘子』の 禅に通じる思想から、仏教に関してもあらゆる本を図書館で借りては読んでいました。そんなことで「死」とはなにか。生きることの意味は何か。なぜ人は病気になるのか。そういうことを父から学び、最近は精神世界にはまっております。

by ロッタ

肉球様、ペットの病気を通して、自らの気づきを得るというのもすばらしいですね。
のぶ様、「病う事は素晴らしい」と思えることは、自己の内面から湧き出てこそだと思います。
ロッタ 様、私も同感です。善も悪もないという価値観・・・今の日本社会に求められる価値観だと思います。

リスクを認め付き合うこと


>思わぬリスクに遭遇して、自分の命を失ってしまうかもしれない。大事な家族の命を失ってしまうかもしれない。それでも、いざとなればそのことを諦めることができるように、「自分の今」を「大事なもの」、「ありがたいもの」として生きておくことが大事だと思う。 自分の死や家族の死を、このような形で普段から自分の心の中にあらかじめ予見しておき、その相対として「今」を生きることともいえるのかもしれない。

仏教(浄土真宗かな)でいう「白骨の御文」ですね。(注:リンクはブログ主の手による)
生きていくとは、その通りだと思います。「べき」とか「絶対に」とかに縛られていると目の前の壁が分かりません。何が起こるか分からないから人生なのであって、リスクだらけ。

by 竹

竹様、ありがとうございます。白骨の御文(はっこつのおふみ)のリンク先から引用です。
だからこそ、「あなたはその事実を受け止め、どのように人生を歩んでいくのですか」と、
亡き人から問われているのです
。』
ここにある多くのコメントを拝見するに、皆がそれぞれの様々な形で、この問いかけに答えていこうとしているように思えます。

医師-患者関係を考える<前半>

こんばんは。初めておじゃまします。m(_ _)m
「他者に対して過度に不寛容になると、社会システムが機能不全に陥ることがある」とても、勉強になりました。

私は、「医療再生を願うネット市民の会」の会員です。この会は、次の3つのスローガンをこころがけることによって医療崩壊からの再生を願う、ネットで活動する市民の会です。
 1. コンビニ受診を控えよう
 2. かかりつけ医を持とう
 3. お医者さんに感謝の気持ちを伝えよう
ホームページはこちらです。
http://saisei.aikotoba.jp/index.htm

お時間のよろしい時に、一人でも多くの方にのぞいて頂けたらうれしく存じます。私は、長い間医療の現状に無関心であったことを反省し、今すぐに自分ができることから始めたいと思います。

by アイスゆず

アイスゆず様のような活動が、もっと広がることを願っています。

割り箸訴訟と医療の不確実性


特に小さいお子さんを亡くされるようなケースは、本当は、こういう死に対するプロセスを支 援するようなカウンセリングが必要なのかもしれませんね。マスコミや周囲が煽るのではなく、心の内側の、後悔や悲しみや、怒りや絶望などを受け止めて向き合い、癒す時間が必要な気がします。そして、それにはすごくすごく時間がかかるものです。マスコミが煽ると、その作業を遅らせてしまうのではないかと心配でもあり、また現場のドクターが極端な責任追求を受けて潰されていくのも心配です。

by ボヤキのソーシャルワーカー


一般人は人の死に関わる事はそれほど多くなく、頭でわかっていても「これは仕方のない事だ ったんだ」と諦める余裕がないと思います。というか、私がそうなのですが・・・。このブログを通して自分の考え方や物事の見方がかわり、ずいぶんと考えさせられています。とても感謝するべき事だと思います。

by キナコ


>なんちゃって救急医さま
自分が専門家として気がつける部分を、ブログとして発信している

>僻地外科医さま
地域医療を考える住民集会で講演

このようなドクターのご努力に、本当に頭が下がります。私は非医療者ですが、このブログほか医療系ブログで学ぶことしきりです。患者も家族も勉強 することで、不確実性が少しでもなくなり(先日の投薬記録もそうですね)、次世代以後の医療の発展と人々の健康を願います。

義理の母が下肢静脈瘤手術後に肺血栓で死亡しました。当時は(今でもわずかながら)他の心 疾患と誤診して、初期治療を間違ったのではないかという疑問をもっておりましたが、数年前に血栓閉塞予防ガイドラインができたというテレビを見たことがあり、死もむだではなかったと、今では思います。

by とおりすがり

ボヤキのソーシャルワーカー様、ご遺族の内面を癒すプロセスの充実化、大切だと思います。
キナコ様、こういうコメントをいただけることは、私自身への励みになります。ありがとうございます。
とおりすがり様、ブログを通して学んでいただけ、それがご自身への受容とつながれば、私も嬉しいです。

遺族の納得はどうしたら得られるのか?


幼いころに病気で母を亡くした通りすがりの意見で、稚拙かも知れません。ちなみに、私は受け入れるまでに2年かかりました。最初は信じられない夢なんじゃないかという思いで「ショック」「否認」、次になんでそうなってしまったのか病気や関わる医療者や私を慰めようとするひとにまで「怒り」を持ちました。周囲の大人や友人に、仕方がないと納得させようとされることに激しい怒りを感じたのです。気づくと無意識に涙が出ていたり、生きていくことに対する意欲が減退しました「抑鬱」。そして、2年たったあるとき、夢の中で亡くした母とその死について語るという体験をしました。別に霊的な話ではありません。ただの夢です。でも、そうすることで、いつの間にか母の死を運命として受け入れ、死んでしまった母として、その存在が変わったような気がしました。強制されてできることでも、最初から意識していたわけでもありません。悩み苦しみながら、あるいは周囲に迷惑もかけながらも、受容できたのです。今は怒りや恨みはありません。救命という名のもとに、怒りを一身に身に受ける機会の多いお医者さんは、大変なエネルギーが必要になりますよね。愛するものの死に対する受容とは、ライフワークにもなりうるくらい誰にとっても膨大なエネルギーが必要なものだと思いました。長文で失礼しました。なんちゃって救急医先生のブログを読ませていただいて、お医者さんがどういう視点でものを考えているのか、勉強になっています。

by 愛する者を亡くした通りすがりです

愛する者を亡くした通りすがりです様、貴重なご体験をありがとうございます。

生と死は対立ではない


”死を”考えることは ”生”を考えることでもあるので先生のような問いかけをしてくださる方は貴重だと思います。がんばってください。

by rira


29歳の主婦です。若い頃ひたすら死について考えたことがありました。特に病気や辛いことなどなく若さゆえ悶々と考えていたものですが、死はなんだかよくわからない怖いものでした。結局その時は「考えない」ことにしました。数年後ネット環境を手に入れました。死生観についてもなんちゃって先生のように掘り下げた意見に触れて自分の中で変化がありました。死はなんだかよくわからない怖いものではなくなりました。なんだか怖いから、わからないから蓋をしてしまう人はきっと多いのでしょう。私のように。その人たちに死は怖くないと思ってもらうのって本当に難しいですよね。個々に医療訴訟をおこしてしまう人は怖くて怖くて最後に診てもらった医療者に矛先を向けてしまう。

by こんこん

risa様、そのように考えてくださることは、私としてもとてもありがたく思います。
こんこん様、確かに「死」はわからないものかもしれません。だから、人は考え続けるのだと思います。

以上が、一般の方々から私のブログにいただいたコメントの一部です。主に、「生」と「死」をテーマとしたコメントから抜粋させていただきました。本当に皆様ありがとうございました。

近代医療は、高々一世紀程度の歴史しかありません。なのに、今、日本の医療は、閉塞感に満ちています。どうしてでしょうか?便利になりすぎた世の中が、人に自分の内面を見つめることを忘れさせてしまったためでしょうか?一方、人類は、文字を創り、自分の考えを文字に残すことができるようになって、数千年の歴史があります。その長い歴史を通して、先人達がすでに思い考えてきたことに、私たちは今触れることができます。それは、自らの内面の気づきのきっかけとなるかもしれません。そしてそれは、自分の生き方や価値観に大きな影響を与えるかもしれません。少なくとも私自身はそうだったと思います。いずれにしても、今の医療がどんな進展をしようとも、それとは関係なく、必ず、私たちは、自分の、家族の、生と死と向き合わなくてはなりません。その向き合うことに、医療者も非医療者も関係ありません。皆一緒です。

だから、生と死を巡るテーマに関しては、多くの方々と、語り合っていきたいと思っています。

最後に荘子の一節を引用します。

善夭善老 善始善終

夭(わか)きを善しとし、老いを善しとし、始めを善しとし、終わりを善しとす。

若さを善しとし、老いを善しとし、生まれたことを善しとしl、死ぬことを善しとする。(大宗師編)

この世の万物を貫く大きな真実をあるがままに肯定し、ありとあらゆるものの変化はすべてそこから生じ、再びそこへ帰っていく。そんな境地に心を遊ばせていくと、自分の人生もひいては自分の生死も、肩の力をぬいて向き合うことができないでしょうか? 今、私は医療の現場のど真ん中でそんなことを考えています。


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五輪旗で医療崩壊を語る(その2) [雑感]

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本日のエントリーは、五輪旗で医療崩壊を語る(その1)  の続きです。

「5」:心の問題(医師側)について

医師側の心の問題がどのように医療崩壊に関係しているかについて考えてみます。一言でいえば、医師のモチベーションの低下ではないでしょうか?その結果、社会現象として注目されたのが、小松先生が最初に言われた「?Aμi?e・?\μ\U\?!?\,\a" target="_blank">立ち去り型サボタージュ」という現象だと思います。

(1)失望感・無力感
人の心というものは、様々でしょう。だから、ここでは、自分の感情を中心して、失望・無力感を考えてみたいと思います。もしよろしければ、コメント欄で皆様の心のうちをお聞かせ願えれば、多くの非医療者の方々に、今の現状に対する医師の内面というものをお伝えできるのではないでしょうか? 個人的には、福島大野病院と奈良大淀病院の事例を通して、今の医療事情に対して、途方もない失望感・無力感を深く深く感じました。そして、感情の波は上下しますが、この失望感・無力感は、今も心のどこかで感じ続けています。 かつて、mixiに書いた2006年10月26日の私の日記(マイミク限定)を振り返ってみました。こう綴られていました。大淀病院の事例がマスコミによって連日ヒステリックに報道されていた頃の日記です。

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=***   ←(大淀病院を報じるmixiニュースのURL)

皆さんもご存知のこのニュース。

ネット内では、いろんなところで「医師」が吠えています。
「やってられるか!!!(怒り)」 ということで。
マスコミに対する医療報道のあり方への怒りが一番多いです。

私自身、複雑な気持ちで事の推移を見ています。
なんせ、明日はわが身の立場ですから。

自分のことを自己評価すると、正直一生懸命やっていると思う。一症例ごとに、自分のあらゆる知識を総動員して、その場での最善の患者アプローチを考えている。人一倍頭をつかっているという自負はある。いくら頭だけ使っても、保険点数にはなんらかわりはないのだが、それでも自分は頭を使っている。

皆様方は、わかっているよね。
私たちのファインプレーあるよね。
ん、慰めあおう。たたえあおう。

でも、世間の評価は、あ・た・り・ま・え なのだろう

セルフコントロールの肝は、他人の評価を気にしてはいけないことであると 重々承知している。

でも、気持ちは、複雑。

なんせ、明日にでも、たった一つのエラーで、世間に叩かれまくって、自分の医師人生が終わりになるかもしれない。

そんな世の中になってしまったのがなんだか悲しい。

多くの善良な医師が今そんな気持ちになっていると思う。

これが当時の私の気持ちです。読み直してみると、今は当時よりもちょっぴり冷静な気もしますが、大筋は、今でも同じです。私のこの感情に影響しているものは、単に報道の問題だけでなく、社会自体がもつ、他者への「不寛容性」の問題もあることがわかります。

感情をさらすのは少し勇気が入りますが、あえてさらしてみました。

私の感情は、決して一般化しうるものではありませんが、医師の中に私と似たような感情を抱いている方も決して少なくないだろうと思っています。

感情には感情で帰ってくるのは、想定の範囲内ですが、一応皆様へのお願いです。

「いやなら辞めろ!」的な、人の心への配慮に欠く煽りてきなコメントはご遠慮願いたいと私は思っています。

(2)頑張りすぎ キーワードは過剰適応

頑張ることは一般に良いことと受け取られがちですが、頑張りすぎることはどうでしょうか?微妙ですよね。私はどちらかというと余りよろしくないのではと考える派です。だから、その線引きをどこでするのかという点が重要だと私は考えます。そのためには、冷静に自分自身や業界そのものを見つめる目線が必要です。そして、そのうえで、適切な適応(≒ブレーキ)を考えていかないといけません。ところが、その適切な適応のあり方を考えることなく、ひたすら頑張り続け、周りの要求に適応しようとする個人の行為や業界の姿勢も存在します。私は、それを過剰適応という表現で、警鐘を鳴らしておきたいと考えます。なぜならば、過剰適応の先には、疲弊と破綻という結果しかないと相当に高い確度で予測できるからです。基本的に人間の欲望には際限がありません。だから、その欲望に答えるべくひたすら適応することだけを考えていけば、必ず過剰適応の状態になってしまいます。ブレーキが必要という理屈はそこにあります。

医療業界が、過剰適応の結果、疲弊と破綻という末路と陥らないためには、「足るを知る(老子→禅、仏教へ)」の精神が普及し、生への欲望や死へ不満を過度に求めずに、現状の医療のままで満足し幸福感をもつことが、今の社会に求められている姿勢ではないでしょうか? 業界としては、できないことはできないと正直に主張する勇気と決断を持つことが、過剰適応を避けうる一つの方法だと思います。いずれも、難しいだろうとは思います。ですが、これが私の理想です。

(3)不信
私達、医療者も今、多くの不信感を抱いていると思います。一つは、厚労省に対する不信です。一つは、報道に対する不信です。そして、もう一つは、患者に対する不信です。厚労省に関しては、事故調査委員会の設立に関する思案のどたばた等にて、もはや医師からの信頼は地の底に落ちたといえるのではないでしょうか?報道は、社会の流れに応じ、報道内容を随時変化させていきます。そういう意味では、医療に対する報道は、かつてのバッシング一辺倒からは、変わってきたとは思います。それでもやはり、報道に対する不信は根強く残っていると思います。昨年より、モンスターペイシェントなどの言葉が報道にも登場するようになりました。実際に、現場で患者さんと接していても、常識はずれの態度や行動を示す患者さんに出会います。もちろん、そんな人は、極々少数派です。大多数の患者さんは、常識のある方です。ですが、患者さんと初めて会うことの多い救急外来という場の特性上、どうしても最初から患者さんを信用できずに、不信感を持ってしまうことはあります。

このように、医師側にもいろいろな不信が心の中にあります。それは、直接的、間接的に、対患者さんとの関係の中で、対地域との関係の中で、何らかの影響があるのだろうと思います。

不信は、また新たな不信を生み、相互関係をぎくしゃくしたものにします。だから、医師側が抱く不信は、自己の問題としてそれを受け入れ、視点や考え方を自らで変え、そして不信を解消させる自己努力は必要かと考えます。もちろん、それは、患者側にも同じくお願いしたい自己努力ではありますが・・・・。

(4)意欲喪失
どんな事情や理由であれ、多くの医師が現場を去ること。これが、医療崩壊問題の本質だといえると思います。現場を去るということは、意欲喪失という医師の心の中に宿る問題があります。その点を鑑みずに、強制配置して医師を確保すればいいなど発想では、現状の回復は望めないでしょう。だから、医師が意欲を喪失しないためにはどうしたらいいのか?そういう視点を一人ひとりに考えてほしいです。特に、政策立案にかかわる政治家の先生方には、医師の意欲維持・回復といった視点から、政策を考えてくださることを私は望みます。よろしくお願いしたします。念のために申し上げますが、業界自身で解決せねばならない点があることも心得ているつもりです。

以下、2,3,4に関しては、ごく簡単に触れるに留めます。

「2」:報道の問題について

(1)負の増幅効果 - ゼロリスク社会の増幅・相互不信の増幅・生への執着の増幅- 
(2)知ることの弊害
(3)誤解を誘う情報

メディアには、種々の増幅効果があります。いくつか私が思うところの負の増幅効果を上に書きましたが、主に「死」の報道についてここでは考えてみます。メディアには、死の報道に関してこんな背景があるようです。a??a?¨a?aa?1a? ̄a?≫a??a?!a??a?,-a2!a?¬-aμ[コピーライト]a,€/dp/4781906710" target="_blank">リスク心理学入門 岡本幸一著 サイエンス社 P125より引用。リスクに関するあるシンポジウムでの現役記者の発言です。

 これまで出てきた各種リスクについてどういうふうに報道されているかということを簡単にご説明します。まず原則としましては、報道においては人の命には軽重がありまして、日本人の命というのは外国人より必ず重いんです。それから、巻き込まれた一般人の命というのは、専門家の命、事故に関連する業務にかかわっていた人の命のより、はるかに重いです。それからこれは当たり前ですが、有名人の命は無名人より重いです。
 こういう原則みたいなものがありまして、まず自動車事故についてどういう報道のされ方をしているかといいますと、(中略)原則として
「死ねば出す」となっています。(中略) それから、子供が絡むと大きなニュースになりやすい。大人が死んでも、顔写真は、自動車事故の場合はめったに載らないのですが、子供が死んだら顔写真は必須となります。 (中略) 次に航空機事故について考えますと、これは被害者に日本人がいるかどうかが大きな分かれ目になります。(中略) 社会面ではなぜその飛行機に乗ったかとか、乗る前はどんな様子だったか、かなり情緒的に報道されます。

まあ、こんな感じだそうです。 なんだかなあと思います。こうして選択された死の報道が、メディアの増幅効果をとおして世間の死生観にどんな影響を及ぼしているのでしょうか?世間の死生観は、医療崩壊問題と直結すると考えている私としては、とても不安です。野の花診療所の徳永進先生が、ある著書の中で、「死の実況中継」をやればいいのにという提案をされているのを私は読んだことがあります。まったく私もそう思います。頻度の低い死を派手に報道するより、日常的な死を広く報道し、世間が「死」に対してオープンになれる世論が形成されることを私は希望します。生への執着を増幅させるのではなく、死への受容を増幅させてほしいと思っています。死を考えることは今の生を考えることなのです。決して、生と死は対立の関係ではないということを繰り返しここでも主張しておきます。

私は、ある知り合いの議員に、報道抑制の提案を行ったことがあります。知ることの弊害を懸念しているからです。よく知る権利ということばが聞かれますが、知らない権利だってあってもいいのではないかと思います。今のメディアは、リスクを過敏に報道しすぎると思うのです。知らなければ、平穏であるはずの生活が、知ってしまったがためにそれが崩されるということもあるのではないでしょうか?

誤解を誘う情報は、メディアに蔓延していると思います。私達は、メディアリテラシーを持つことが急務だと私は考えています。(参考エントリー:メディア・リテラシーと「死」の受容 )

「3」:法律の問題について

(1)訴訟(刑事・民事)
(2)法の「過失」と医療行為
(3)医師法21条
(4)労働基準法

4つほど、問題と思う項目を挙げましたが、ここでは各論について触れません。私が、政策立案者や法の関係者に述べたいことは、前エントリーで述べた悲嘆のプロセス12段階の存在を知り、そして考えほしいということです。

①精神的打撃と麻痺状態②否認③パニック④怒りと不当惑⑤敵意とうらみ⑥罪意識⑦空想形成・幻想⑧孤独感と抑うつ⑨精神的混乱と無関心⑩あきらめ-受容⑪新しい希望⑫立ち直り

死に遭遇したばかりの遺族は、こういう心理が働きます。勢いのあるご遺族は、その一時的な感情(特に④、⑤)にまかせて、法的な行動(刑事告訴など)を起こそうとします。それは、紛争の火の手が拡大してしまうことと直結します。だからこそ、遺族がまだこの感情のプロセスの中にあるときは、刑事捜査や民事訴訟を起こしたくても、まだ早急には起こすことが出来ない具体的な法体系があると良いと思いませんか?これは、ご遺族の訴訟の権利を奪うという主旨ではなく、医学的な感情の乱れにある時期にのみ、訴訟を起こすことができないという提案です。何でもかんでもすべての医療行為に対して免責を要求しているわけではありません。これが私の主張です。

片方に患者さんがいるんです。患者さんの家族がいるんです。

なぜ、警察もうごいてくれないんだ
どう考えても医者のミスじゃないのか
不明ですませるのか

という声が出てくるんです

これは、どなたのご発言だか、覚えていますか? 舛添厚生労働大臣のお言葉ですよ。(参考エントリー:診療関連死法案 舛添大臣の答弁) きっと大臣は悲嘆の心理プロセスをご存知ないのだろうなとこのご発言から私は推測します。

法の介入は、もっと後だっていいじゃないですか? 十分に悲しみの感情を発散させ、関係者のみで十分なコミュニケーションをとった後でいいじゃないですか?法が動き出すのは・・・・・。

ぜひ、こういう見方もあるということを私は議員の先生方にお伝えしたいです。

「4」:医療体制の問題について

(1)医師不足
(2)医療費抑制
(3)労働環境
(4)スピリチュアルケア

(1)(2)(3)は、随所で語りつくりされていることなので、もう、ここでは述べません。(4)の視点が私独自かもしれませんので、これについてのみ述べます。

私は、今の医療崩壊には、「心」の問題が大きいと主張してきました。ですので、最後に、医療体制から、「心」の問題を触れてみたいと思います。

スピリチュアルケアとは何ぞや?江原啓之をイメージされることが多いかもしれませんが、とりあえず関係ないと思っておいてください。スピリチュアル=霊的というイメージのみで解釈すると言葉の誤解を受けそうです。

誤解のないように、スピリチュアルケア入門 窪寺俊之 三輪書店 P13から引用しておきます。

スピリチュアリティをひとまず次のように定義しておきたいと思います。

「スピリチュアリティとは人生の危機に直面して生きる拠り所が揺れ動き、あるいは見失われてしまったとき、その危機的状況で生きる力や、希望を見つけ出そうとして、自分の外の大きなものに新たな拠り所を求める機能のことであり、また、危機の中で失われた生きる意味や目的を自己の内面に新たに見つけだそうとする機能のことである」

少し説明が必要です。人が思いがけない人生の危機(突然の病、死別など)に直面すると、激しい心の動揺を経験します。その状態から立ち直るために、人は自分の外にある絶対的存在や、人間的限界や有限性を持たない世界に、新たな「生きる力」や「希望」を求めたりします。また、自分にとって最も重要なものは何かという視点から、隠れていた真の自己と出会うことで危機を乗り越えて生きるための新たな「人生の意味」や「目的」をつかもうとします。このような心的機能がスピリチュアリティで、これは生得的ですが、危機に瀕したときに覚醒し、力を発揮します。

医療の中で、患者や家族のスピリチュアリティの覚醒が必要とされる場面が、「死」に他なりません。これまで、生命を延ばすことに、ただ一生懸命だった医学の発展の歴史からみれば、このスピリチュアリティを援助する(=スピリチュアルケア)視点が、実践医療の中において、システム的(保険点数など)としてはもちろんのこと、学問的にさえ、まだまだ立ち遅れているのではないでしょうか? 

医療崩壊の打開策として、医療者と患者の対立を緩和させうるシステムは不可避だと私は考えます。スピリチュアルケアの視点を医療システムの中に積極的に取り入れていく視点は、その一つの策だと思います。

以上が、人の「心」という視点を中心に据えて、考えるうちに私の脳裏に思い浮かんだ提案です。

結局、患者と医療者の対立が問題なわけですよね。医療崩壊の根底には。だからこそ、この両者の心のあり方を思索するのが、重要であると私は思うわけです。

最後にもう一度五輪旗を出して、まとめます。

図1.jpg

(まとめ)
昨今の医療崩壊を考えるにあたり、患者側の心と医師側の心の有り様を見つめることは重要である。いかにして、この両者の対立を無くしていくか。これが極めて重要な目標である。医療は、死と直面が避けられない業種であり、死生観のあり方や悲嘆の感情のプロセスの理解がまず必要である。また、患者側医師側の両者の相互不信感の解消や不寛容性の是正も必要である。この両者の関係の修飾因子として大きなものが二つある。報道の問題と法律の問題である。特に悲嘆の感情のプロセス初期においては、この二つの因子を早期介入させないことが、対立の拡大予防策として重要である。報道業界の自立性と何らかの法改正を望みたい。医療体制の中で未発達の分野は、スピリチュアルケアの分野である。この分野を発展させていくことは、医師と患者の相互理解ひいてはその対立の緩和という視点においても有用であると考える。両者の対立が緩和され、医療システムの問題が改善されれば、その帰結として、医師のモチベーション低下の問題は自動的に解決するであろう。


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五輪旗で医療崩壊を語る(その1) [雑感]

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もうすぐ、北京オリンピックです。いろんな政治的問題はあろうと思うが、是非成功してほしいものですね。もちろん、日本にも頑張ってもらいたいです。今回は、あまり五輪と脈絡はないのですが、あえて医療問題を皆様方に印象深く感じていただくために、こじつけは承知の上で五輪旗とからめて、医療崩壊問題を5つの視点から眺めてみることにします。

私は、医療問題を語るときに、人の心の問題は、絶対に切り離せない問題であり極めて重要な視点であるという認識を持っています。ですので、これからの話は、当然そこに力点が込められたものになろうかと思います。

まずは、私が作成した五輪旗:医療崩壊版をご覧下さい。 まあ、こんな感じです。 とりあえず、印象的に眺めてもらったら、それだけで結構です。
図1.jpg

いかがでしょう? ぶっちゃけていえばただの目次です。 番号順にこれから私見を述べていく予定です。その前に図の右下にある相互関係性のところから説明をしておきたいと思います。

私は、医療崩壊の根底には、患者側(1の円)と医師側(5の円)、それぞれの心の問題が大きく関与していると思っています。 その関係性は、原因と結果という直線的な関係性ではなく、相互関係という認識です。ですので、1と5を結ぶ矢印は、⇔としているわけです。 医者が・・・だからとか、患者・・・・だからとかいう直線的な因果律は、全くナンセンスだと思っています。

で、他の円(2,3,4)は、それはそれぞれ重要だけれども、それでも私の見方は脇役という位置づけです。 だから、1と5の相互関係に影響する因子という意味で、図に示すような関係性で表してみたわけです。

では、1、5、2、3、4の順番で、それぞれの各論に入っていきたいと思います。

「1」:心の問題(患者側)について

(1)死生観・死との直面
医療は、生と死を扱います。言い換えると、人間の知に基づいた操作です。その操作は、生命のもつ本能により、「死を回避し、生を維持する」という方向を目指します。それが医療です。しかしながら、この方向性は、(長いタイムスパンとしてみれば)最終的には100%失敗するというのが、万人が認めざるを得ないところの真実です。だからこそ、人間は、ずっと「死」を考え続け、その体系として、多くの哲学や宗教ができあがってきたのではないのでしょうか? 幸か不幸か、人間は、20世紀に入り、多くの技術を獲得し、確かに人間の平均寿命を大きく伸ばしました。もちろん、世界レベルで見れば、大きなばらつきがあるでしょう。ここでは日本という狭い中で考えてみます。20世紀の医学の発展により、多くの日本人は、身近に死と直面しなくても、社会生活が普通に営める時代になってしまってはいないでしょうか?だから、死生観について自己洞察する必要性をなんら感じていない人が多数派なのではないでしょうか?

そんな背景で、いきなり自分の死を直面しないといけなくなったり、家族の死と直面しないといけなくなったとき、普通の人は混乱します。そしてそのとき、人の心にはどんな感情が生じるのでしょうか? 平素の死生観がなければ、なおのことその混乱が大きくなり、感情も激しくなりそうです。では、そのような人たちに生じる感情は、どのような変化をしていくのでしょうか?

それは、死とどう向き合うか アルフォンス・デーケン NHKライブラリー P37~に、 多くの人に共通するという「悲嘆のプロセス」としての12の段階があると記載されています。
①精神的打撃と麻痺状態②否認③パニック④怒りと不当惑⑤敵意とうらみ⑥罪意識⑦空想形成・幻想⑧孤独感と抑うつ⑨精神的混乱と無関心⑩あきらめ-受容⑪新しい希望⑫立ち直り

さて、悲嘆のプロセスに、こういった感情の変化があるとして、今の社会において、このプロセスがつつがなく進みうることを考えての体制の整備がなされているでしょうか? 私はなされていないと考えます。むしろ、それどころか、④怒りと不当惑⑤敵意とうらみのステップあたりで、報道(2の円)や法体系(3の円)が医師と患者側の間に入ってしまうことで、ますます患者側の感情がこじれてしまい、結果として医師への不信を大きく増加させてしまっている現状はないでしょうか?そして、それが訴訟や報道という形で、他の医療者の心にまで影響を及ぼし、その複合的な結果として、今の医療崩壊という現象の一面が説明できるのではないでしょうか?

だから、医療者や政策決定立案者をはじめとする様々な分野の関係者が、こういう心理過程に対して無知・無関心である限り、医療崩壊問題の根底は解決し得ないと私は考えます。

死生観についてですが、私が今、勉強中のものが、荘子です。 物事の対立を否定し、万物を「一」とみなすスタンスをとります(万物斉同)。死生観もそれに根ざしており、死と生に対立はありません。(参考エントリー:生と死は対立ではない ) 難しいかもしれませんが、多くの日本人一人一人がこんな荘子の境地にたてれば、医療崩壊問題はおのずと解決するのかもしれません。

時に安んじ、順に処(お)れば、哀楽も入ること能わず。古者(いにしえ)は、帝の県解(けんかい)と謂えりと。 (荘子 内篇・養生主第三)   

訳:巡りあわせた時のままに身をまかせて自然の道理に従っていくというなら、生まれたからといって喜ぶこともなく、死んだからといって悲しむこともなく、喜びや悲しみの感情の入り込む余地はない。こうした境地を、昔の人は、絶対者からの束縛からの解放と呼んだのだ。        (荘子 第一冊 金谷 治 訳注 P100)

生と死は、自然という感覚が納得できれば、荘子のこの境地もわからないはないですが、人間は、感情の動物であり不安定です(これは、荘子も認めている)。 だから、悩んで良いのです。苦しんで良いんです。悲しんで良いんです。 そして、そうしながら、周りの援助を受けながら先にあげた12のステップを通過していけばいいのです。 ただ、その不安定さが少しでも安定に近づくために、先人達の境地を一度は自分で勉強しておくとよいのかもしれません。いざというときの自分の心の平穏のために。私は、そう思います。

こういう心の視点から、社会的な医療崩壊問題を語る人が、一人くらいいてもいいのではないかと思い、私がこうして主張しています。


(2)ゼロリスク希求  参考エントリー リスクを認め付き合うこと 

死や疾患、あるいは医療上の合併症や副作用などを、リスクという捕らえ方をした場合、そのリスクをどの程度社会の中で許容するかという視点は重要です。その視点が欠落すると医療という公共の社会資源を永続維持していくことが困難になるからです。そのことを、大学入試センター試験(800点満点)を引き合いに出して考えてみます。つまり、800点をリスク0と考えます。そして、テストで高得点をめざす学習行為そのものを医療安全行為とします。 さて、ある時の医療安全体制で、センター結果試験の結果は、300点でした。まだまだですよね。そこで、努力をしました。そしたら、比較的容易に500点になりました。 しかし、世間はまだまだ許しません。ゆるぎない安全を求め続けます。そこで、医療業界は努力しました。今度の試験では、なんと650点まで挙がりました。すごい努力です。多くの人がその安全の恩恵を受けられるようになりました。それでもリスク発生は0にはなりません。だから、世間はまだまだ許しません。医療業界は、総力をあげて努力を続けました。中には過労死をする人も出始めました。それでも努力しました。そして次の試験では、なんと720点まで取りました。すごい努力です。でもやはり、リスク発生は0になりません。 さて、このまま、世間がリスク発生0を求め続けたら、医療システムはどうなると思いますか? つまり、720点からあと80点上げるために、どれくらいの勉強が必要ですか? そう考えると、それは300点を600点にするよりもはるかに現実不可能な要求であることがわかりますよね。というか、そんなこと本気でやったら受験勉強だけで一生が終わっちゃいますよねきっと。つまり、私がいいたいゼロリスク希求とは、現状の状況(現在の点数)を見つめたうえで、その妥協点を考慮することなく、ただ、ただ800点満点を求め続けるバランス感覚の乏しい要求のことです。こういう感覚が患者側に幾分かはあるのではないかと私はなんとなく感じています。 これぐらいでいいという妥協意見が、患者側から全く聞こえてこないからです。もし、この感覚が世の主流だとしたら、他の要因をどんなにいじろうとも、医療崩壊は必然だと思いませんか?

(3)不寛容性  参考エントリー 医師-患者関係を考える<前半>
ここに示した参考エントリーが、この不寛容性について語ったエントリーです。キモはこれです。

他者に対して過度に不寛容になると、社会システムが機能不全に陥ることがある

病的なまでに医療者に対して、過度に不寛容な人たちは、医療現場のスタッフのモチベーションを地の底まで突き落とします。それは、退職や転職や配置転換などの目に見えるかたちで表出することもありますし、自分の内面のみで苦しんでしまい、外部からはその被害がなかなか見えづらい場合もあります。いずれにしても、過度に不寛容な人たちは、医療者の心を蝕み、医療者の時間を過度に浪費させ、マクロな視点で眺めれば、医療システムを機能不全に陥らせてしまうということにつながるわけです。

(4)無関心  参考エントリー 「真実を知りたい」に対する私見
さて、社会の中で、医療と関わりをもつ人はどれくらいでしょう。高齢者になればなるほどその比率は上昇するでしょうが、全年齢で見れば、普段は医療とは無縁の方が圧倒的多数ではないでしょうか? そして、その人たちの多くは、医療崩壊に無関心なのではないでしょうか? この多数派層である無関心層が動かないと、日本のシステムは変わりません。それが民主主義の政治だからです。今、医療者は、一生懸命現場から、SOSを発しています。 そのひとつの良い形が、先月の12日行われた「医療現場の危機打開と再建をめざすシンポジウム」ではなかったのしょうか?しかし、その参加者は、圧倒的に医療関係者で占められていました。やはり世間は、医療崩壊問題に無関心なのだなあと思いました。無関心層には、おそらく先にあげた(1)~(3)の視点をもつ人たちが相当数いるだろうと私は思います。その無関心層に医療崩壊の問題をどう認識してもらうかは、おそらく政治家の先生方の手腕が大きく関与するのだろうと思います。だから、私達医療者は、自分達の声を、まずは政治家の先生方に確実に伝え、私たちの思いをわかってもらう努力が必要なのだろうと思います。

(5)不信  

患者側に潜む医療に対する不信・・・・・。この心の問題は、医療問題を考えるに当たり、最大の難課題だと思います。死別の混乱した感情の中で、(1)に示したような心理プロセスの中の一過性といえる不信感は、そう大きな問題ではありません。もちろん、それをこじらせなければの話ですが・・・・。 世の中いろんな人がいて、一生ある人を恨み続け、恨んで恨んでそれでも恨みきらずに一生を終えていく人もいます。つまり、恨むことがその人の人生の中心に来てしまうわけです。それと同じで、医療に対して、固定した不信を一生抱き続けていく人たちも存在するわけです。ネットの中を渡り歩いていると、患者側の立場の人たちが作成したブログやホームページに時々出会います。中には、医療に対する不信と怨念の強さと深さを感じざるを得ないものもあります。 このように医療に対していただき続ける不信感は、その人の心の中に、(3)に述べたような不寛容性をつくりあげてしまうでしょう。そして、それは、医療というシステムを機能不全にさえ陥らせる潜在的なパワーがあるといえるでしょう。そこだけをみると、医療者とは対立しかありえないことになります。ただ、難しいかもしれませんが、そのパワーがうまく違う方向に向くように変わってくれれば、医療者の良きパートナーとなりえる可能性もあるかもしれません。こういう人たちは、絶対数から言えば、圧倒的に少数派です。このように声の大きい方々のすっかり固定してしまった医療不信という視点を変えることができるのは、医療を信頼してくれている患者の方々の声なき声かもしれません。だから、国民の代表である政治家の先生方には、そのような声なき声を、形ある一つの声にすることを考えてほしいです。それが、私の希望です。

今回は、これくらにしてます。 その2へ続きます。


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「死」に対するコミュニケーションについて考える [雑感]

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少し前のエントリー 生と死は対立ではない  の冒頭を再掲してみます。

そして、種々の状況を鑑み、私がいけると判断した方の場合は、ストレートにこんな質問をかます。

「患者さんの死についてお話し合いをされたことはありますか?」

そこから、お互いの死生観についての会話を始めることが多い。そして、その会話から得た情報は、ポイントをカルテに落とし、病棟への引き継ぎにも使っている。

一番多いと私が思っている反応は、戸惑いである。「えっ!? そこまでは・・・・・・・」 という反応だ。
 

本日は、家族間の「死に対するコミュニケーション」について考えてみたいと思います。

普段、私達は、日常生活の中で、家族の間で「死」のことをどれだけ話し合っているでしょうか?
なかなか、オープンには話しにくい雰囲気ですよね。

少なくとも、現代社会レベルでは、確実に「死はオープンじゃない」ですよね。
現代社会は、メディア社会。我々は、社会生活を営む上でメディア情報の影響を多大に受けています。
だから、各家庭内においても、「死はオープンでないのが主流」と考えるのは、それなりに合理的だと私は考えます。

家族間で「死がオープン」でないと、どういうことが医療の現場で起きやすいのでしょうか?

そのあたりの問題点は、田舎の消化器外科医先生が、生と死は対立ではない のコメントの中でご指摘くださいました。
それを引用してみます。

現在の終末期の医療では、本人が望む最期と、家族の望む最期とでは、明らかに後者が優先される状況が出来上がっています。
現状では、この患者さんにここまでするのは、本人も望まないであろう、と思われる処置や治療でも、家族が望めばせざるを得ません。本人の望む最期を迎えるためには、元気なうちから自分の死に方を何通りもシミュレーションしなければなりませんが、
そのような話を切り出すこと自体が、許される雰囲気で無いことに、頭を悩ませています。
by 田舎の消化器外科医 先生

いやあ、最もなご指摘だと思います。 やはり、普段の生活の中で、「死」について話し合い、いざというときは、本人の望む形が優先される医療があってもよいのなとは思います。

皆さんは、自分の思いを家族に伝えていますか? 
皆さんは、家族の思いを、一人一人把握できていますか?

そんなことを考えさせられたメールを紹介します。私の知り合いのA医師(20代 女性)から、いただいたメールです。一部を変更の上、差し出し主の許可を得た上で紹介しています。

こんばんは。
ご無沙汰してます。

(途中 略)

そういえば、ちょっと思い出したことを書きます。
遠方に住むうちの祖父母が、ビデオメッセージで「
私達はもう85歳と80歳ですが、そろそろ私達が楽に死ねるような医療を考えてください」と話してました。
祖父母は、私が医者になってすごく喜んでくれていたので、
いろいろ期待してると思ってただけにずっこけました
私たち家族からするとなるべく長生きしてほしいと思いますが、今回初めて、祖父母の気持ちを知りました。

(以降 略)

自分達の「死」を自ら静かに見つめている祖父母 VS ただ「生」の視点に重きを置く20代の医師
自分達の「死」を自ら静かに見つめている祖父母 VS 祖父母の思いとは相反する家族の気持ち

そして、そのギャップに気が付き、ずっこける医師でもあり孫でもあるA先生・・・・・・・。

何気ないお便りでしたが、こういう構図を私は感じました。

こういう気づきは、やはりコミュニケーションなんですね。A先生のご家族は、家族間で良好なコミュニケーションの土台があるからこそ、A先生は祖父母の気持ちを知ることができたんですね。

今後、高齢者の死亡者数は、向こう20年位、直線的に上昇し続けていくと推計されています。
だから、ますます、高齢者の方の死への思いに対して、ご家族にしろ、医療者にしろ、アンテナを立てて、それをキャッチする努力が必要なのかもしれません。
つまり、日常生活の中で、「死」に対するコミュニケーションなるものが重要だと私は思うわけです。

死生観がからむ話をすると、一部の方々は、どちらか両極端の意見を言われ、しばし、話がかみあわなくなります。
そうではなくて、私は、その結論よりも、話し合いそして向き合い、お互いの気持ちを知っていくというプロセスがすごく重要なのだと思います。

だから、私は、私の領域である医療の現場で、生と死の狭間で揺れ動くご家族に出会ったとき、そのご家族や患者さんが、よりよい人生の選択をしていただけるようなファシリテーターとして振舞えたらいいなあと思っております。

そのためには、自分は自分としての立ち位置はしっかりさせておくこと。 自分とは異なる考えや立ち場も尊重できる視点を持ちえること。
そんなことを自分に課しておきたいと思います。

で、死生観に対する私の現在の立ち位置は、荘子的境地をめざしたいということです。 まだまだその境地は遠そうですが、私のこれからの目標です。

生と死の問題を突き詰めて考えていけばいくほど、医療を受けないという考えを選択肢として持っておくことも重要なのかもしれないと私には思えてきます。医療は当然受けるものという考えが社会にありがちですが・・・・・。だから、多くの人には気がつきにくい視点かもしれません。 しかし、いずれにしても、選択した結果よりも、選択にいたるプロセスのほうがはるかに重要であると私は考えます。


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生と死は対立ではない [雑感]

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最近、こんな光景を救急外来でよく目にする。

施設入所中、ADLは寝たきりの高齢の患者さん。これまで誤嚥性肺炎を繰り返している。今回、熱発にて救急車にて来院。 今回も、レントゲンは、肺炎像を呈している。 落ち着くまでは、急性期病院で抗生物質の点滴加療が必要だ。もちろん、それはそれでいい。 ただ、ひとついえることは、このような患者は、健康な人たちよりも、ずいぶんと「死」が確率的に近い位置にいるということだ。

最近、私は、救急外来でこんな患者に遭遇したとき、「施設職員、患者家族などその患者を支える周りの方々の死生観ってどんな感じなんだろう?」という疑問と興味をもちながら、日々仕事をしている。

そして、種々の状況を鑑み、私がいけると判断した方の場合は、ストレートにこんな質問をかます。

「患者さんの死についてお話し合いをされたことはありますか?」

そこから、お互いの死生観についての会話を始めることが多い。そして、その会話から得た情報は、ポイントをカルテに落とし、病棟への引き継ぎにも使っている。

一番多いと私が思っている反応は、戸惑いである。「えっ!? そこまでは・・・・・・・」 という反応だ。 自宅介護のみならなず、施設介護職員をもってすらも同じだ。もちろん、救急外来という場だからこそ、そうなのかもしれないが。

こういうことは、救急外来の仕事ではないのかもしれない。それは私にもわかっている。
しかし、私は、多くの人に、日ごろの生活の中で、「死」も見つめてほしいと考えている医療者の一人でもある。だから、現場で私と出会った人と、そんな会話をするのだ。

今の日本においては、「生」を中心に、「死」は端っこに、そんな位置関係で、社会が動いているような気がしてならない。いつからそんな社会になったのだろうか? 私にはよくわからない。だが、戦後のマス・コミュニケーションの発達が大きな役割を演じていないだろうか? 戦後の教育が大きな役割を演じていないだろうか?

確かに、「生」を中心にすることを「是」とする社会風潮があったからこそ、今の医療の発展があるのも、事実だろう。一方で、「死」は端っこにおき続けた社会風潮は、様々な問題を今生み出しているとも言える。その一つに、「ゼロリスク社会信奉」があると私は、考えている。つまり、「死=リスク」と考える社会だからこそ、「死を避ける=ゼロリスク」をめざすということだ。ややもすると、それは、次のような認知を生む。

医療は、安全であるべきだ。 社会は、安全であるべきだ。 学校は、安全であるべきだ。 家庭は、安全であるべきだ。病気は避けるべきだ。 ・・・・枚挙にいとまがない。

「・・・べきだ」という思考は、デビットD.バーンズが唱えた「歪んだ思考10のパターン」の中の一つに挙げられている。

「べき思考」からくる弊害に関する考察は、すでにこのエントリーで述べた。 ⇒リスクを認め付き合うこと

じゃあ、どうしたらいいのか?という問いに対して、私は私なりに、このエントリーで、「諦める」そして「受容する」というようなことを述べている。

自分で前々から感じていたのだが、「生を諦める」というのは、どこか受け入れがたい表現である。何かが、違うと、自分の中で違和感を抱き続けていた。

最近、荘子を読みながら、なんとなくその自分が抱き続けてた違和感がわかったような気がしてきた。

生を諦め、死を受容する・・・・・・ この考え方をすること事態、生と死を対立の構造で捉えてしまっていたのだ。

荘子 内篇・大宗師篇では、荘子の死生観が語られている章があるのだが、そこには、こんなことが書いてある。

夫れ大塊我を乗するに形を以てし、我を労するに生を以てし、我を佚にするに老を以てし、我を息わしむるに死を以てす。故に吾が生を善しとする者は、乃ち吾が死を善しとする所以なり

その解釈は次の通り。

そもそも自然とは、我々を大地の上にのせるために肉体を与え、我々を労働させるために生を与え、我々を安楽にするにために老年をもたらし、我々を休息させるために死をもたらすものである。(生と死は、このように一続きのもの)だから、自分の生を善しと認めることは、つまりは、自分の死をも善しとしたことになるのである。(生と死との分別にとらわれて死を厭うのは、正しくない)   荘子第一冊  金谷 治 訳注 岩波文庫P184

この文章に代表されるように、荘子の文章には、生と死の間になんら対立点を感じさせないことから、私自身が、生と死を対立の中で認識していたことに気がついた。

紀元前300年~500年ごろの、中国は乱世の世、百家争鳴の時代であった。そういう時代背景で、孔子・孟子の儒家に対するアンチテーゼとして生まれてきた思想が、老子、荘子を中心とする道家(どうか)思想である。その根本は、無為自然だ。この道家の思想は、ずっと後になって、仏教にも取り込まれ発展していった。

この道家思想は、今の現代社会の中での個人の生き方において、きわめて数多くの示唆を与えてくれていると思う。とくに死生観のところは秀逸だと思う。

今、世の動きは、医療崩壊の打開策として、社会全体の死生観についての思索が浅いままに、「ゼロリスク医療」をただ目指しているだけに過ぎないと私には、思えてしまう。

しかし、日本社会として、画一的に死生観をいじるのは困難であるという問題もある。死生観は、一種の思想でありそのまま宗教とリンクする。そして、憲法20条で、国としての宗教活動は禁止されているからだ。だから、日本国民、個人個人が、考えていくしかないのだろう。同じ20条で、個人の宗教の自由は確保されているのだから。

私個人は、もう少し、道家の思想を深めてみたいと思っている。

メディア報道でも、道家思想を取り扱っているものを見つけた。本日はそれを紹介する。

[生老病死の旅路]福永光司さんに聞く われ、天地の間に逍遥す
1992.11.20 東京夕刊 7頁 写有 (全2,582字) 
 ふくなが・みつじ 中国宗教思想史家。大正7年大分県生まれ。74歳。東大教授、京大人文科学研究所長などを歴任。わが国における老荘思想、道教研究の第一人者。日本文化と道教のかかわりについても探究を続けている。著書に「荘子」「老子」「道教と日本文化」「道教思想史研究」など。
                   ◇
 ◆生死とは「気の集散」
 死という問題を真剣に考えたのは、やはり戦争に行く前ですね。死とはなにか、生とは何なのか、その意味を見つけようと、お寺や教会にも行ってみましたが、
最終的に「これだ」と思ったのは、『荘子』の言葉でした。

 
〈余(わ)れ 宇宙の中に立ち 天地の間に 逍遥(しょうよう)す〉

 人間とは、無限の空間と無限の時間が交わるところに、一定期間、命を与えられたものに過ぎない。しかし、ほんのわずかな期間ではあっても、精一杯、自分が納得するように生き抜くこと。その大切さを、私はこの言葉から学びました。老荘の思想では、人間の生き死にとは、気の集散なんだと考えます。気とは、宇宙に充満している生命の流れであり、人間の肉体を構成しているもの、そして生命の営みである気息でもあります。だから、人は宇宙の大きな気から生まれ、死ぬとまた、大気のなかに帰っていく。あるいは、宇宙に満ち満ちているわけのわからない混沌(こんとん)から生まれ、死後は再びそこに溶け込んでしまう、ともいえるでしょう。人間の生命は、神とか造物主といったものに作られるのではなく、あくまでおのずから生じ、おのずから変化していく、とみるわけです。そして、生と死の根底にあり、天地、大自然を貫いている根源的な真理が「道(タオ)」と呼ばれるものなのです。
 ◆「複合混成」の生き方
 そうした生死のとらえかたを、なるほどと感じたのは、なんといっても戦地ででした。私は大学卒業の一週間後に、熊本の砲兵連隊に入隊し、南支(中国南部)に派遣されました。先ほどの『荘子』の言葉で一応の覚悟はできていたつもりでも、実際に爆撃や機銃掃射を受けると、怖くて怖くて仕方がない。弾がみんな自分をめがけて飛んでくるような気がするんです。そんな日々が続く中で、慣れと疲労もあったんでしょうが、次第に大きな宇宙の海原では、自分はヒエ粒くらいの存在なんだと思えてきましてね。一トン爆弾が降ってきて、いっそ木っ端みじんになった方が楽でいい、と自分を突き放して考えることさえできるようになりました。ある夜、空襲で草むらに伏せている時、ふと空を見上げると、そこには満天の星。あまりの美しさに、もし、ここで死んだら、天に昇って名もなき小さな星になるんだ、と実感しました。大自然と一体になったみたいな、生きても死んでも同じだ、という気分になりましたね。後年、この話を湯川秀樹さんにすると、「それはすごい体験をしたね」と感心して下さいました。ちょうどガンで入院する前後だったので、先生もご自身の死を意識していた時だったからでしょう。
湯川さんは、こんなことも言っていました。「福永君、荘子は素晴らしいな。人間、死んだらどうなるか、それは死んでから確かめればいいと語っている。たしかに、生きているうちに、死後のことまで『こうだ』とひとつに決めてしまおうとする態度こそ、非合理なんだよ」湯川さんの言った通り、老荘的な生き方では、生死の問題に限らず、ひとつでものごとを割り切ってしまうことはしません。コンビネーションというか、複合混成の論理です。野球にたとえると、ストレートに加えて、カーブやシンカーも投げることです。漢方薬にも、その精神は流れていて、ひとつの薬だけで病気を片付けようとせず、何種類もの薬を調合しているわけです。あれでもあり、これでもある、といった柔軟性を尊ぶ姿勢だともいえるでしょう。われわれ自身、日々変化しているのですから、人生や生き方をひとつに決めてしまわず、状況に応じて、その時、その時で判断していく。いわば、船に乗っているようなつもりで、しけが来たら、沈まないだけの処置をして、あとは波に任せる。そんな感じですかね。
 ◆対立が共存できる場
 複合混成の考え方は、西田幾多郎の「場所の哲学」などにも影響を与えていますが、様々な個性を持ち、時には対立するものが、同時に成り立つ「場」をつくっていくことは、これからの我々、さらには人類全体にとっても大切なことだと思います。それは、老いも若きも、金持ちも貧乏人も、権力者も庶民も、みんな素っ裸になって湯舟のなかで楽しくすごす、銭湯みたいなイメージです。
ものごとを直線的に整理し、ひとつに割り切っていくデカルト的な論理、あるいはキリスト教の一神教の論理は、たしかに現代のハイテク文化を花開かせました。しかし、今はそれだけではやっていけない時代だと思います。民族や宗教など、異なり、対立する存在が、ともに成り立つような文明の原理も必要なのです。ただ、日本における老荘思想や道教の研究はけっして進んでいるとはいえません。なんとか、道教の一切経五千四百八十五巻の国訳本をつくりたいのですが……。とても無理な話なので、百二十巻のアンソロジーである「雲笈七籤(うんきゅうしちせん)」の訳注をつける作業を進めています。これも、どこまでできるかわかりません。でも、すでに七十年以上も生かしてもらったという気持ちは強いですね。とくに私の場合は、自分の命は五十年近く前に消えていたはずで、残っているのは拾いもの、といった意識がありますから。いよいよ体の具合が悪くなったら、日本アルプスの雪渓にでも入って、静かにこの世を終わりたいですね。まあ、先のことは、その時考えますけど、畳の上ではなく、芭蕉みたいに旅に病んで死ぬのが理想です。
  ◆   ◆   ◆
 張りのある声で、熱っぽく語る。郷里の中津に戻って六年になるそうだが、精神、肉体ともに、きわめて元気。風貌(ふうぼう)には、古代中国の賢人を思わせるものが漂う。その話は、まさに気宇壮大。老荘思想を軸に儒教や仏教、さらに東西の哲学、現代文明論にまで展開する。宇宙や人間存在、生命、人生にかかわる氏の見解は示唆に富むが、とくに戦争体験に裏打ちされた死生観には、説得力がある。それにしても、死んだら、宇宙の大きな生命の流れと一体になる、あるいは、夜空に昇って星になるという話は、なぜか、心に安らぎを与えてくれる。(聞き手・小林 敬和記者)読売新聞社

ずいぶん前の報道だ。16年前にこのような視点が社会に問いかけられているに関わらず、今の世は結局・・・・・ともいえるかもしれない。
ならば、それはそれとして、今の流れの中で、それに逆らわず、自分を見失わないのが懸命な生き方なのかもしれない。


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「真実を知りたい」に対する私見 [雑感]

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昨日は、日比谷公会堂に行ってまいりました。
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「医療現場の危機打開と再建をめざすシンポジウム」

・報道記事 ⇒こちら (魚拓
・シンポジウムの詳細は、ロハス・メディカル・ブログで報告されています
 ⇒議連発足記念・真の公聴会
・続いて僻地の産科医先生のところも
 ⇒こちら

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このシンポジウムを聴講するためです。 残念ながら、私事があり、中座せざるを得ませんでした。

国会議員の先生方に、現場の医療者が抱える現場の生の危機感が、それなりに伝わったのではないでしょうか?私は、そう期待したいです。

一方、患者側の立場として、NPO法人がん患者団体支援機構副理事長である内田絵子氏の発言もありました。

そのご発言の中で、やはり、意見の相違というか、立場の違いというか、落としどころが見えないというか・・・・

私が個人的にそんな風に感じたご発言を報告します。

(#)「私達(患者側)は、真実を知りたいんです」
 というご発言です。

医療をお受けになる方々は、医療に対して、このようにお考えの人も多いでしょう。 それは、なんとなく感じます。だから、本日は、この点に対して、私見を述べてみます。

もちろん、これは、一医療者の私見にすぎません。医療者側の総論的意見であるとの誤解のなきようにお願いいたします。

「私達(患者側)は、真実を知りたいんです」とは、メディア報道を介してよく聞く台詞です。 自然災害であれ、殺人事件であれ、交通災害であれ、人が死んだとき、 その遺族側の方々の台詞として、私達は、この台詞を耳にします。 そして、医療関連の場合でも、その例外ではないようです。

「死」という結果においては、すべて共通するわけですから、同じ心理がベースにありそうです。

私は、今の現代社会が、「真実」「真実」と社会を挙げて騒ぎ立てることによって、かえって、よりいっそう暮らしにくい社会になってしまっているのではないかと危惧します。 

真実になんて、だれにもわかないものだ。 

と割り切ってしまったらどうでしょう?

人は、真実の名の下に、 物事に善悪のラベルをつけ、悪のラベルを貼った人を糾弾してやろうという性質があると思っているからです。

今の医療崩壊の一端は、こういう社会性が、一因となってはいないでしょうか?

中国の思想家、荘子(そうし)およびその一派によって記されたという「荘子(そうじ)」という書物の中の内扁・斉物論(さいぶつろん)から、ある一説を引用します。この部分は、荘子自身の記載といわれているようです。

吾は蛇蚹蜩翼を待つ者か。悪んぞ然る所以を識らん。悪んぞ然らざる所以を識らんと。

蛇蚹(だふ)とはヘビのうろこのこと、蜩翼(ちょうよく)とはせみの翼のことだそうです。この漢文の言わんとするところは次のようなことだそうです。

ヘビはなるほど歩く場合にうろこがあるから歩ける。うろこによってヘビは動いているともいえる。けれども、ヘビがなければうろこが動くわけではないから、うろこはヘビによって動くということかもしれぬ。ヘビがうろこによって動くか、うろこがヘビによって動くか。どっちがどうかわからぬ。セミは翼によって飛ぶということかもしれぬ。けれども、翼はセミがなければ飛ぶこともできない。どちらがどうか、これもよくはわからぬ。結局世の中に議論する、善悪を論ずるといったところで、善というものが真の善であるか、悪というものが真の悪であるか。可が可であり、不可が不可であるか。その判断が付かぬ。 (荘子物語 諸橋轍次 講談社学術文庫 P113)

医学上の因果関係を論じていこうとする場合、まさに、この蛇蚹蜩翼(だふちょうよく)です。「蛇蚹蜩翼」は、持ちつ持たれつの関係にあることを表す意味の熟語として用いられているようですが、ここでは、因果関係をどちらかに無理やり白黒つけようとしてもつけらないということの意味として受け取っていただければ幸いです。いろんな病態仮説を繰りだせば、それはそれになりに確率論としては、考えられてしまい、それらに対してそれ以上、因果関係を突き詰められないということがままあると私は言いたいのです。

今、厚労省は、「真実を知りたい」という社会風潮に乗っかり、国を挙げての調査システムを作ろうとしています。

そこからでる結論や判断を、ここでは仮に、真実としておきましょう。

私が予想するには、
「・・・・という可能性もあるが、XXXXも考えられ、断定はできない。」
という玉虫色の真実が続々と出てくるでしょう。
「明らかに医師が悪い」
というきっと期待されているであろう真実は余り出てこないのではないかと思っています。

さて、そんなとき、(#)を主張される方々に、ご納得いただけるのでしょうか?

私は、はなはだ疑問です。ぶっちゃけ、本音は、「死」という結果を、医療者のせいにしたいということではないでしょうか? なぜ、そうしたくなるのか? それは、その人個人の問題ではないと私は思います。むしろ、現代社会の当然の産物なのではないかと思っております。

人の「知」は自然を支配しようしてきたし、まだ今もそれをしようとし続けています。そんな現代社会のあり方が、結果として、多くの人々を他責的にさせてしまっているのではないでしょうか? 参考エントリー:転倒と訴訟.

とにかく
医療から生じる結果には、真実という言葉では、語りきれないことが十分起こり得るものだ
このことを、多くの方々にわかってほしいと私は思っています。 

この前提を抜きにしたまま、信頼・不信の二元論だけで、論じようとしても、限界があると思います。

(#)を主張する方々の多くは、その背後に「不信」「希望」が隠れていると思います。だからこそ、すぐに「隠蔽」などという相手が悪意を持っているに違いないという表現で、医療者側を傷つけたり、時に身構えさせたりしてるのではないでしょうか?つまり自らが対立煽る言葉を自らで使ってしまうのではないでしょうか? そういうことに、お気づきなんでしょうか? 私がそういうと、彼らは、医療者の態度が、原因なのだときっということでしょう。

私にはよくわかりません。荘子の斉物論的視点からみれば、どっちもどっちなんでしょうかね。

まあ、いずれにしても、政治家の方々に置かれましては、医師の一人一人が、今の現状に失望し、確実に心を折られて、自分の持ち場を去っているということが進行中である現況において、社会的視点から、有益か有害かのバランスを十分に、お考えのうえ、政策を練ってほしいものです。

私は、社会がどちらに転んでも、自分が自分らしく、生きていける道を、粛々と探すのみです。

さて、次の記事で使われている真実という意味は何なのでしょうね?

[記者日記]いやされぬ傷 /埼玉
2001.03.23 地方版/埼玉 28頁 (全354字)
医療過誤で家族を失ったとされる人たちを取材している。大切な人を失ってから時が止まったままの遺族の話を聞くたびに、胸が締め付けられる。2年前、4歳の息子を失った母親はこう言った。「あの日から私には春は訪れません。今年、ランドセルの業者がダイレクトメールを送ってきますが、この春ほどつらい時期はない」。また「医師は、直接死と向き合う仕事をしている。彼らにとって毎日起こることでも、遺族は生涯で数回しかない」と語り、
いやされることのない気持ちを必死で抑えて生活する姿が痛々しい。裁判では、「医療」という聖域が遺族側に大きな壁となって立ちはだかる。また、医療過誤訴訟のほとんどは病院側が勝訴しているのが現実だ。死とミスの因果関係を立証するのは難しい。真実を知りたいと願う強い信念が、遺族を支えている。 毎日新聞社

このような記事が書かれ、そして社会に出てしまうことが、私としては、悲しい限りです。このご遺族に必要なのは、適切なグリーフケアだと私は考えます。真実という言葉に翻弄されてはいけないと思います。これをお書きになった記者には、グリーフケアという視点は見えてなさそうですね。

厚労省の3次思案で、訴訟が減るのでしょうか?

次の記事なんかを目にすると、不信あるところには、システムも労力も時間も多大な無駄骨かもしれません。私はそう思いました。 この記事で表現されている「真実」の意味合いをどうぞ各人でお考え下さい。

県内高校生の異常行動死 タミフル訴訟、争う姿勢 XX地裁XX支部
口頭弁論 機構側、因果関係で
200X.XX.XX 朝刊 29頁 社会 (全1,184字)
二〇〇X(平成XX)年X月、インフルエンザ治療薬「タミフル」の服用後に異常行動を起こし、死亡した県内の男子高校生=当時(17)=について、独立行政法人「医薬品医療機器総合機構」(東京)がタミフルとは別の薬の副作用と判断し精神的苦痛を受けたとして、父親の会社員男性(50)が同機構を相手取り、慰謝料百万円を求めた訴訟の第一回口頭弁論が四日、XX地裁XX支部(XXX裁判官)で開かれた。被告側は全面的に争う姿勢を示した。被告側の答弁書によると、タミフルと異常行動の因果関係などについて争う姿勢で、次回以降に詳しく主張する。次回弁論は十二月五日。訴状によると、高校生はA型インフルエンザと診断され、〇X年X月X日昼に医師が処方したタミフルを服用。数時間後、雪の中をはだしで飛び出し、国道を走るトラックにはねられて死亡した。男性は事故を受け、〇X年X月、同機構に遺族一時金などの給付を請求。同機構は昨年七月、副作用の原因が当日朝に服用した塩酸アマンタジンだったとして支給を認定した。
男性はタミフルの副作用が認められなかったことを不服とし同八月、厚労省に審査を申し立てたが、却下された。男性は遺族一時金の受け取りを拒否し、今年七月、提訴に踏み切った。
◆「真実が知りたい」 父親、副作用の解明期待
「親として
真実を知りたい」―。タミフル服用後に死亡した県内の男子高校生をめぐり、タミフルと異常行動死の関係解明を目指す全国初の民事訴訟。高校生の父親で原告の男性(50)はX日、XX市内で会見し、「真相が明らかになることで同じような被害の再発防止につながるのではないか」と訴えた。十七歳だった男性の長男は二〇〇X年X月、タミフル服用後に自宅から国道に飛び出し、トラックにはねられた。「自殺するような子ではないのは親が一番分かっている」と男性。「薬害タミフル脳症被害者の会」の一員として、タミフルの副作用による異常行動を指摘し、タミフルの使用禁止を呼び掛けてきた。だが、副作用被害かどうか審査する「医薬品医療機器総合機構」に遺族一時金の支給を申し込んだが、タミフルの副作用は認められなかった。審査申し立ても「既に遺族一時金などの請求が認められており、判定による申し立て人の利益侵害はない」と却下。真相を明らかにする手段は訴訟以外に残っていなかった。タミフルは、インフルエンザの特効薬として国などが備蓄を進めている。男性は「自分も含めてタミフルの被害者は多い。真実を追求しないと、息子のような犠牲者は増える」と警告する。代理人のXXX弁護士も「機構の認定はいい加減で、根拠はない。科学的より政治的な判断が加わった気がする」と指摘し、「これらを状況証拠などからあぶりだしていきたい」と今後を見据えた。同機構は「裁判で係争中の案件であり、コメントは差し控えたい」としている。XX新聞社

真実=タミフルの副作用=自分が信じる事柄  
こういう文脈であることが、皆様にもご理解いただけると思います。

こういう紛争の落としどころに、蛇蚹蜩翼(だふちょうよく)の荘子の思想が役に立つかもしれないなと私は思っています。

まとめます。

「真実・真実」と主張しても今の医療事態の好転は望めないでしょう

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厚労省3次試案に対する私見 [雑感]

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厚労省より、第3次試案がでました。一部の報道では、最終試案などと報じていますが、それは誤りです。

Yosyan先生 2008-04-05 事故調第三次試案パブコメ募集始まる 
urouro先生 医療事故調第三次試案を公表、このままでは国民の健康が『大惨事』となるでしょう

のところで、たいへんわかりやすくまとめてくれています。皆様も是非ご参照ください。

私も端的に申します。

医療者が患者のために全力をつくして自分のスキルを発揮し向上させ、結果として社会に対して医療を提供できるという目的を達するための法的な保護(刑事訴訟などの抑制)の観点が、

口約束のみ   謙抑的=口約束 という意味

に終わっています。 

ここを法文化させることが、我々医療者にとって、当然、多くの物言わぬ一般の方々(=医療を受ける側)にとっても、一番重要なところです。

医療の安全の確保に向けた医療事故による死亡の原因究明・再発防止等の在り方に関する試案-第三次試案-」に対する意見募集について

上記URL 募集要項より抜粋

4 意見の提出方法等
個人のご意見の場合は【様式1】法人・団体のご意見の場合は【様式2】に記入し、次のいずれかの方法により提出してください。なお、いただいたご意見に対し個別の回答はいたしかねますのでご了承ください。

(1)電子メールを利用する場合
電子メールアドレスIRYOUANZEN@mhlw.go.jp 厚生労働省医政局総務課医療安全推進室 あて

※ 送信する電子メールの件名は「第三次試案に対する意見について」としてください。

※ ご意見の提出は、【様式1】又は【様式2】の電子ファイルをメールに添付して提出してください。(ファイル形式は、テキストファイル、マイクロソフトWordファイル、ジャストシステム社一太郎ファイル又はPDFファイルのいずれでも構いません。)

※ 容量が5MBを超える場合は、ファイルを分割する等した上で提出してください。

(2)郵送する場合
〒100-8916 東京都千代田区霞が関1-2-2 厚生労働省医政局総務課医療安全推進室 あて

(3)FAXを利用する場合
FAX番号:03-3501-2048
厚生労働省医政局総務課医療安全推進室 あて
※ 照会先窓口(03-5253-1111(内線:2580、2579))に電話連絡後、送信してください。

上記URLより様式1をダウンロードして、上記メルアドへ添付ファイルすればよろしいようです。

ここは、数が重要とみます。 多くの方々に、口約束では困りますという主旨のパブリックコメントをメールにて送っていただければと思います。

ここからが、私の今日の意見です。

私は、このブログの随所で、医療の不確実性について、ことあるごとに強調しています。 医療は、不確実とともに限界があるのです。 なぜなら、人の生死は、人為ではどうすることも出来ないからです。昔、秦の始皇帝は、不老不死の薬を求めてたゆまぬ努力をしたが、それはかなわぬ努力であったという話が有名でしょう。

昭和時代の偉大な漫画家 手塚治虫も、名作 ブラックジャックの中で、こんな一説を残しています。

ブラックジャックの恩師である本間先生が脳出血で亡くなります。ブラックジャックは自分で執刀しました。完璧な手術でした。ですが、本間先生は、術中に亡くなります。打ちひしがれるブラックジャックに、なくなった本間先生が、かけた言葉がこれです。

人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね・・・
図1.jpg

報道から私達につたわる状況はどうでしょう? 「死んだら、だれのせい?」という報道が多すぎませんか? 私はそう感じています。 この3次試案の理念も、所詮はその延長上にあるようです。 なぜなら、医療者の処罰に対しては、まったく法的効力をなしていない制度設計だからです。つまり、口約束です。もちろん、実際の現場では、自分やご家族の生死に関し、達観しておられ、自分の人生のお手本にさせていただきたくなるようなすばらしい方々とも出会います。こういう方々は、あまり報道では強調されませんが・・・・。 人のもつ、潜在的な死に対す不安や防衛が個々の人々の心の中にあるからこそ、「死」の事例に対して、人の心が動くのでしょう。これは、社会的なマスで見れば、「死」の報道のニーズ(=知る権利?)へつながり、ニーズがあるからこそ、その方面の報道が活発になるという理屈になります。そして、報道が活発になれば、そのメディア効果により、多くの人の心に、いつの間にか「死はだれかのせい」という感覚が刷り込まれていくのではないのでしょうか? 今の社会にはそういう循環による個人の心の形成がなされていると思います。つまり、医療という観点からみれば、これは、メディア報道の弊害だと私は考えます。

さて、このような社会背景を鑑みて、この3次試案は、適切でしょうか?

私は、不適切だと判断します。

医療機関、医療関係者を処罰でコントロールしようという視点が大きすぎるからです。つまり、厚労省の役人の心も、今の社会事情に影響を受けているということに他ならないのでしょう。

だからといって、個人個人の死生観を変えろと国が強制するわけにはいきません。一人ひとりの心の問題は、社会システムで統制というより、哲学や宗教の助けを借りて、個人個人で深めて熟成させていくしかないでしょう。

では、私は、一地方の医療者として、この3次試案に関し、何を要望するか? 二つあります。

一つ目です。

刑事抑制の内容をきっちりと法文化してほしい。

二つ目です。

届出の基準が、これでは使えないので、変更してほしい。

とくに、一つ目の部分について、多くの意見が必要です。数が必要です。 どうか皆様ご協力のほどをよろしくお願いします。

これから、二つ目の要望について述べます。

3次試案P4の届出のアルゴリズムの引用します。これです。
図2.jpg

どうでしょうか? 判断の分岐基準が、あいまいです。 元々、医療の不確実性という観点にたてば、こんな基準では使い物にならないというのは、明白です。こんなんで運用されたら、現場は混乱のきわみとなります。 ちなみに、奈良大淀病院の事例をこのアルゴリズムに当てはめてみると、 明らかでない⇒起因しない⇒届出不要 となります。ところが、ご遺族は納得がないからこそ、訴訟に出ています。つまり、このアルゴリズムで病院側が運用したとしても、紛争が起きてしまうことになります。これでは、新システムを立ち上げる意味がありません。

何が重要か? 
届出に際し、医療者側と遺族側の間で、どれだけの納得が形成されているか

これに尽きます。ならば、これを中心に基準を作ればいいわけです。 遺族の気持ちは、二転三転することは十分に起きえますから、そのことも想定において、私は、こんな届出基準の試案を作ってみました。これです。
図3.jpg

いかがでしょうか?

とにかく、多くの方が、厚労省に声をあげてくださることを希望します。 


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